豊浜
【とよはま】

(近代)昭和10~31年の鬼鹿村の行政字名。もとは鬼鹿村大字鬼鹿村の一部,茶俊内・ポン茶俊内・浜中。江戸中期以降ルヽモツペ場所とトママイ場所の境界。「ルヽモツヘ境は往古よりチャシュンナイを以て定め置」(東西蝦夷場所境取調書上)など,境目に関した記述が多い。また境目の目印は「沖に一つの岩有,此処を以って目的として境を立しなり」ともいわれた(西蝦夷日誌)。ニシン漁業の集落として形成。地名は当時の茶俊内小学校長上草武夫の提案で,ニシン豊漁を念願して好字が当てられたという(豊浜沿革史稿)。明治初期以降漁民が定住。同19年からは農業が営まれた。同27年温寧小学校茶俊内分教場開設,昭和11年豊浜小学校となり,同56年廃校。明治36年の火災で全戸数60戸中20戸が全焼。昭和29年を最後にニシンの漁獲皆無となり,漁民の生活は極度に疲弊し,出稼ぎで生計を維持する家庭が増加。養豚・ミンク飼育・メロン栽培が進む。同30年の世帯数57・人口390。翌31年小平(おびら)村大字鬼鹿となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7005856 |