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布礼別
【ふれべつ】


(近代)昭和41年~現在の富良野市の地区名。もとは富良野町の一部。地内は布礼別市街地・東布礼別・西布礼別・南布礼別・北布礼別・中布礼別に分かれる。地名の由来はアイヌ語のフレペツ(赤い川の意)による(富良野市史)。江戸期の松浦武四郎「丁巳日誌」には「フウレヘツ,赤土崩岸,小川の由なり……其山の後ろえチユクヘツより越るによろし」と見える。明治34年本間牧場が開設されたことにより開拓が始まる。本間牧場は布礼別・富丘・八幡丘の一部,上富良野町倍本地域,中富良野町本幸地区の4,000町に及び,富良野地方では最大規模の個人農場であった。本間牧場は牧畜を目的として貸下げを受け,牛馬の飼育もなされたが,丘陵部の開拓が進むにつれて畑作が中心となる。布礼別は同牧場の中心地区で,燕麦・大麦・小麦・亜麻が主要農作物であった。明治38年本間牧場簡易教育所(現布礼別小学校)開校。大正5~8年,第1次大戦の影響による豆景気にはアオエンドウが栽培され豆成金も続出,入植者も急増。大正9年の戸数175・人口957。同10年南接する麓郷地区の開拓が開始されると麓郷への入植者が増え,同14年には108戸・610人となる。豆景気以後は主に除虫菊・ジャガイモ・ビートが栽培され,デンプン用のジャガイモが主要農産物となる。大正8年布礼別産業組合設立。同10年布礼別郵便局開設。昭和4・6・9年農地開放が行われる。水稲は明治末期から作付けされたが,平坦部が少なく,耕作面積はわずかであった。昭和38・45年大型ブルドーザーによる造田が盛んに行われたが,同45年の減反政策により作付面積は年々減少,同50年には水田90haのうち35%がタマネギ・ニンジン・小麦などに転作。同53年道営畑地帯総合土地改良事業開始,層圧調整,除礫,暗渠排水などが行われた。世帯数・人口は,昭和35年140・838,同50年91・408。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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