青森県
【あおもりけん】
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(近代)明治4年~現在の県名。明治4年9月5日弘前県・七戸県・八戸県・斗南(となみ)県・黒石県・館県の6県を合わせた弘前県が成立したが,同年9月23日弘前県は県庁を弘前から青森へ移して青森県と改称し,当県が成立した。引き継いだ県域は,陸奥国津軽・北・三戸3郡の全域と二戸郡の一部の1,103か村・草高41万2,153石余,陸中国のうち九戸・紫波2郡内42か村・草高1万9,052石余,岩代国内39か村・草高4万746石余,渡島(北海道松前地方)50か村・無高である(県史8)。また,戸数約8万3,000,人口約47万3,000で,県の大参事として熊本藩士出身で戊辰戦争の際に官軍参謀を勤めた野田豁通が任命された。弘前から青森への県庁移転は,弘前では旧南部領と遠隔すぎるというもので,津軽と南部の中間地として青森が選ばれたという。同年11月2日には江刺県に所属していた二戸郡60か村が当県に編入され,また東北地方の各県の飛地が整理されて当県に所属していた国分が盛岡県(岩手県)へ,岩代国内分が福島県へ分離し,当県域は陸奥国一円と北海道松前地方とに定められた。また,同日民事堂を青森町の旧弘前藩御仮屋に設けるとともに,支庁を弘前・福山・田名部(たなぶ)・八戸・七戸・五戸の6か所に置き,野田豁通を権参事に,菱田重禧を権令に迎えた。9月23日の青森県成立は単に弘前県からの改称にすぎなかったが,11月2日の再編は全国的な府県廃合(3府72県)の一環として行われたもので近代的な県制の発足を意味するものであった。翌5年9月20日旧館県域(松前地方)が開拓使の管轄に移って当県から分離し,さらに同9年5月25日二戸郡が岩手県に属すことになり,ここに現在の青森県域が確定した。明治6年3月大区小区制が施行され,当県は10大区72小区に分画された。「県史」などによると,津軽郡は第1~5大区からなり,第1大区の大区会所は青森町に置かれ,小区数7,その内訳は町数17・本村数177・枝村数19,戸数約9,100・人口約5万5,000,第2大区の大区会所は黒石町に置かれ,小区数10,その内訳は町数20・本村数179・枝村数63,戸数約1万600・人口約6万2,600,第3大区の大区会所は弘前町に置かれ,小区数6,その内訳は町数89・本村数134・枝村数1,戸数約1万4,000・人口約7万3,800,第4大区の大区会所は鰺ケ沢(あじがさわ)町に置かれ,小区数8,その内訳は町数11・本村数224・枝村数3,戸数約8,500・人口約5万1,000,第5大区の大区会所は五所川原町に置かれ,小区数9,その内訳は本村数178,戸数約9,800・人口約5万6,600,北郡は第6~7大区からなり,第6大区の大区会所は田名部(たなぶ)町に置かれ,小区数5,その内訳は本村33・枝村数70,戸数約4,300・人口約2万4,400,第7大区の大区会所は七戸町に置かれ,小区数7,その内訳は本村数50・枝村数301,戸数約6,800・人口約4万2,900,三戸郡は第8~9大区からなり,第8大区の大区会所は五戸町に置かれ,小区数6,その内訳は本村数49・枝村数276,戸数約7,000・人口約3万7,800,第9大区の大区会所は八戸町に置かれ,小区数7,その内訳は本村数71・枝村数188,戸数約7,800・人口約4万8,900,二戸郡は第10大区で,大区会所は福岡町に置かれ,小区数7,その内訳は本村数74・枝村数248,戸数約5,900・人口約3万900(弘前市史)。地租改正事業は明治7~9年に実施され,反別は旧反別6万8,320町に対し改正反別11万495町と4万2,175町を増加させ,税額は旧税額52万5,747円に対し新税額53万6,782円と1万1,035円の増額となった(県農地改革史)。明治初年の「国誌」によれば,二戸郡も含めて村数2,375,戸数8万1,859,社675,寺410,人口46万6,578(男23万9,071・女22万7,507),耕地反別5万5,331町余,草高42万3,100石余,税額19万7,400石余,うち正租米3万5,273石余・雑穀593石余(此米296石余)・金納34万4,498円余(此米13万3,180石余)・雑税米7,554石余・雑税金納5万4,568円余(此米2万1,095石余),馬数8万1,580,牛8,998,舟数1,518(うち大船は106),車数93(人力者69・荷車24),小学校数83(津軽郡40・北郡25・三戸郡15・二戸郡3),港湾は青森・三厩(みんまや)・小泊・十三・鰺ケ沢・深浦・野辺地・安渡・川内・佐井・大間・大畑・鮫・北の各湊があり,道路は東京駅路(奥州街道)・同別路・同別路(八戸街道)・函館駅路(佐井通)・福山道・秋田道碇ケ関(いかりがせき)通・同大間越通・田名部より佐井村路・田名通より八戸海岸通・八戸より鹿角道・鹿角通があげられ,土産として金・銀・銅・鉄・鉛・石炭・石脳油・泥炭・朱石・舎利石・瑪脳・兼平石・材木石・硫黄・昆布・ワカメ・フノリ・薯蕷・巻丹・黄精・蕨粉・大黄・薬種・漆・ヒノ木・馬・鮭・鱒・海鰮・ニシン・大口鳥・鯣・鰒・海鼠・ホタテ貝・ホッキ・韓塗・什器・飴・酒・醤油を記す。明治11年郡区町村編制法に伴う郡の再編が行われ,津軽郡は東津軽郡・西津軽郡・南津軽郡・北津軽郡・中津軽郡の5郡,北郡は上北郡・下北郡の2郡に分割され,三戸郡はそのまま存続して当県は8郡から構成されることになった。大区小区制との関連でいえば,東津軽郡は旧第1大区,西津軽郡は旧第4大区,中津軽郡は旧第3大区,南津軽郡は旧第2大区と第5大区1小区,北津軽郡は旧第5大区2~9小区,上北郡は旧第7大区,下北郡は旧第6大区,三戸郡は旧第8大区と第9大区にあたる。同年の戸数7万9,424,人口46万4,249,町村数は6町826村,地租金45万4,729円余(地方沿革略譜)。県内の市町村は,大正元年2市10町158村,昭和元年2市21町147村,昭和28年3市33町127村,昭和58年8市34町25村。世帯数・人口は,大正9年12万7,674・75万6,454,昭和10年15万9,053・96万7,129,昭和50年38万7,587・146万8,646,同58年43万299・152万9,269。平成12年53万3,622・149万9,725。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7009758 |