北横町
【きたよこちょう】
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旧国名:陸奥
(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治初年~明治22年は弘前を冠称。江戸期は弘前城下の1町。城郭の東に位置し,南の和徳町と北の田町とを南北に結ぶ町。延宝5年の弘前惣御絵図によれば,東長町七丁目と八丁目(現和徳町)との間を境に,北は東長町北横町,南は東長町南横町として町割りされており,当町を示す東長町北横町には41軒の屋敷があった。宝永4年には郭内武家屋敷の郭外移転によって,町内の屋敷割りが改めて行われ,同時に当町から北の八幡宮までの田町がつくられた(平山日記)。宝暦6年の弘前町惣屋舗改大帳には町屋91軒がある。文政年間の和徳町絵図では,当町は一丁目から四丁目までに分かれ,すべて町屋である。天保8年の弘前絵図でも96軒の町屋がある。明治初年の「国誌」によれば,戸数117,町の規模は「上は和徳町より下は田町まで,長四丁三間二尺,巾6間」とある。また町の状況については「貫属半交し住す」とあり,幕末には町屋と武家屋敷の入り交った町となっていたことが知られる。明治22年弘前市に所属。明治30年になって当町に大きな変化が起きた。弘前に陸軍第八師団司令部が設置されるに伴い,北川端町にあった遊廓の移転地に指定されたのである。これには当町の西南にあった和徳小学校(地番は和徳町)の学区民の反対運動があったが,小学校が移転して当町は弘前を代表する遊廓街となった。昭和2年当町の遊廓から出火した火災は和徳町・南横町・萱町・植田町・代官町など438戸を焼く大火となった。同32年売春防止法が施行され,当町の遊廓は旅館などに変わった。遊廓当時の建物も最近まで残っていたが現在はすべて姿を消した。当町西側の田地(宇野田)に同26年7月市立第一中学校の新校舎が建った。同33年和徳中学校を合併。東側の田地は,近年都市計画路が開通し健生病院・宴会場・工場・商社などのビルディングが建って変貌が著しい。昭和3年の賦課戸数92。世帯数・人口は,同25年175・764,同50年262・702,同55年207・510。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7010692 |