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三戸郡
【さんのへぐん】


旧国名:陸奥

(近世~近代)江戸期~現在の郡名。陸奥国のうち。中世は南部氏の領地である糠部(ぬかのぶ)郡に属した。天正18年南部氏26代南部信直が豊臣秀吉から得た領知安堵の朱印状に「南部内七郡」とあるが,この七郡については北郡・三戸郡(以上現青森県)・二戸郡・九戸郡・閉伊郡・岩手郡(以上現岩手県)・鹿角(かづの)郡(現秋田県)とする説と,和賀郡・稗貫郡・志和郡・岩手郡・閉伊郡・鹿角郡・糠部郡とする説との2説があり,近年では後者が有力視されつつある。三戸という地名の由来は,古来の牧場制によるものと見られるが,戸については古代の蝦夷征伐のあと始末として設けられた屯田兵集落ではないかとする説もある。郡名としては,寛永11年閏7月12日付の「領内郷村目録」(盛岡市中央公民館蔵)に「三戸・五戸・八戸・種一迄一,三万六千八百五拾八石七斗壱升七合 三戸郡」,同年8月4日付の南部重直宛の徳川家光判物(同前)に「陸奥国北郡・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・志和・稗貫・和賀十郡,都合拾万石〈目録在別紙〉事,如前々全可令領知之状如件」とあるのが初見である。江戸期ははじめ全域が盛岡藩領であったが,寛文4年八戸藩が立藩され,翌5年八戸藩の所領が確定してからは盛岡藩領と八戸藩領とに分かれた。寛永11年「領内郷村目録」によれば,当時の三戸郡は現在の三戸郡と八戸市に岩手県九戸郡の一部種一(種市)を含んでいたようであるが,のちの正保4年「南部領内総絵図」,および「正保郷村帳」によれば,三戸郡は,関・茂市・石亀・田子(たつこ)・原・斗内・三戸・目時・大向・相内・八幡・豊間内・七崎・野沢・浅水・手倉橋・西越・貝森・戸来(へらい)・又重・中市・石沢・五戸・兎内・桐屋内・市川の26か村(寛文5年以降の盛岡藩領)と,虎渡・剣吉・名久井・中野・森越・福田・斗賀・苫米地(とまべち)・杉沢・法師岡・島守・田代・晴山沢・平内・白金浜・鳥屋部・是川・松館・十日市・角柄折・妙・新田・浜通・道仏・中井林・八戸・石堂・小中野・類家(るいけ)・櫛引・根城・田面木・売市(うるいち)・川原木・長苗代・尻内・矢沢・根市・大仏・花咲・小泉の41か村(寛文5年以降の八戸藩領)の合計67か村からなり,村高合計1万6,439石余(田1万297石余・畑6,142石余)であった。分割後の新たな盛岡藩領は,村数26か村で,「貞享高辻帳」では表高8,445石余,「安政高辻帳」では1万4,118石余となっている。これらを支配する代官区としては三戸通と五戸通があり,代官所はそれぞれ三戸村・五戸村に置かれた。なお,三戸通はさらに田子通・斗内通・川守田通・袴田通・沖田面通・相内通・八幡通の7通に細分されて呼ばれることもあった。「邦内郷村志」によれば,当郡内の盛岡藩領は三戸通に33か村,五戸通に17か村の計50か村を書き上げ,ほかに五戸通の管轄区域として,北郡内の15か村を書き上げている。これにより,五戸通の管轄区域内に北郡の一部の郷村もふくまれていたことがわかる。また,「仮名付帳」も,五戸通のうちに野沢村1か村を追加し,三戸通33か村・五戸通18か村の計51か村を三戸郡内の郷村として書き上げ,さらに五戸通の管轄内に北郡のうち19か村を書き上げている。「天保8年御蔵給知所書上帳」によれば,三戸郡51か村の高合計1万9,379石余のうち御蔵入高5,194石余・給所高1万3,487石余で,蔵入地26.8%・給所高69.6%となり,給人への知行地の割合が高かった。この盛岡藩領に対し,当郡内の八戸藩領は41か村から成り,その郷村高は寛文5年南部重信より南部直房に下付された領地書上目録では,表高1万585石余,内高2万1,119石余,「直房公御一代集」のなかの寛文5年御分地郡村小高帳之写では,表高1万428石余,内高1万8,200石,「貞享高辻帳」では表高1万428石余,「元禄10年高帳」では内高2万3,400石余(田1万3,152石余・畑1万247石余),「天保郷帳」および「安政高辻帳」の内高は2万1,201石余となっている。八戸藩も盛岡藩の通制を踏襲し,当郡内は長苗代(ながなわしろ)通・八戸廻(浜通)・名久井通の3通に区画された。代官所は設置されないことが多く,各代官は八戸城内で執務したが,宝暦年間頃かは長苗代通代官と名久井通代官は兼務するようになった。各代官の支配する村高は,長苗代通7,700石・八戸廻(浜通)7,500石・名久井通3,000石であった。なお,通内には通称としての下級の通があり,名久井・長苗代通には苫米地(とまべち)通・剣吉通・名久井通・上苗代通・下苗代通・櫛引通が,八戸廻(浜通)には沢内通・御城下通・浜通・山根通・是川島守通があった。三戸郡は,稲作の北限地帯に近く盛岡藩10郡中低位にあったといわれているが,盛岡藩10郡中,水稲生産力が三戸郡より上位(上田反収1石3斗)にあるのは,和賀・稗貫・志和・岩手・鹿角の5郡であり,また三戸郡は八戸藩領をも含めて閉伊・九戸・二戸郡とともに上田反収1石2斗で,必ずしも低位とはいえず,北郡の上田反収1石2斗~9斗より上位にあった。しかし,当郡は北郡とともに夏季におけるやませの影響のため冷害を受けることが多く,しばしば凶作・飢饉に見舞われている。そのため農家は雑穀・大豆等の畑作と馬産とに力をいれた。そのことは,たとえば「正保郷村帳」では三戸郡67か村の総高1万6,439石余のうち,田高1万297石余,畑高6,142石余で田高が圧倒的に多いが,田畑の品位を中田(反収1石)・中畑(反収7斗)と仮定してその面積を試算すると,水田面積は1,029町,畑面積は877町となる。さらに盛岡藩・八戸藩の畑面積は900坪を以て1反歩と表記しているから,その実面積は2,631町歩で,畑面積は水田面積の2.5倍以上であったことになる。いわゆる南部地方のうち,三戸郡が北郡とともに畑作地帯であったといわれるゆえんがここにある。畑作の中心は,粟・稗などの雑穀と江戸中期以降とみに商品作物化した大豆であった。大豆は味噌に作られ重要な食品となるとともに,馬の飼料ともなり,,馬産の隆盛に役立った。江戸中期以降は,為御登大豆として盛岡・八戸両藩の手により大坂に送られたが,その買上代金の支払をめぐって藩と農民との間に争いが起こることもあった。江戸期盛岡藩領内には9つの藩牧がおかれたが,この牧を統轄する御野馬役所が三戸におかれた。また,三戸郡内の三戸通には住谷野,相内野の2枚,五戸通に又重野がおかれた。また,八戸藩も三戸郡内八戸廻に藩牧の妙野があった。三戸郡内の農家1軒当たりの持高は少なく,中には平均しても1軒1石以下の村も存在したが,これら零細農家が農業再生産を維持し得たのは,馬産の恩恵によるものであったといわれる。盛岡藩はわが国における百姓一揆最多発藩であるが,三戸郡内では,寛政7年11月,五戸通・三戸通・鹿角通の百姓数百人が重税反対を要求して三戸に集まり,城下への直訴を企て成功した一揆,および嘉永6年7月,野田通を中心とする全領的百姓一揆の気運の中におきた五戸通2,000~3,000人の重税反対を要求して成功した一揆のほかには,天保4年9月の三戸通の米騒動および同5年正月五戸通七崎村の山林破り騒動などがあるに過ぎない。また八戸藩でも,全領では17~18件の百姓一揆が発生しているが,三戸通では,天保5年名久井・長苗代通・浜通など全領の百姓数千人が重税反対その他86か条の要求をかかげ,城下に押し寄せて強訴し,成功した一揆のほかは,正徳元年,八戸廻鳥屋部村その他の百姓6人が給所地頭の命令に違反して入牢させられたところ,村民がその赦免を願い出,強訴して成功した一揆,元文2年,八戸廻島守村の百姓13人が代表となり,村役人の年貢取立の不正を藩に直訴して,その追放に成功した一揆,安永7年,名久井通の百姓と村役人が藩士某を排斥してその追放に成功した一揆などがあるに過ぎない。両藩を通じてその発生件数が少ないのは農民意識の低調さに帰せられるであろう(旧南部藩における百姓一揆の研究・近世青森県農民の生活史)。明治維新に際して盛岡藩は奥羽列藩同盟に加わったため賊軍となり,明治元年12月盛岡藩領は没収されて維新政府の直轄地となったが,当郡内の盛岡藩領も例外ではなく,二戸・北両郡とともに弘前藩取締の管轄となった。しかし,この3郡の民衆は反対を表明したため,翌2年2月からは下野黒羽藩取締に変更された。黒羽藩取締はのち北奥県と称したが,同年8月九戸県が成立してその管轄下に入った。九戸県は,翌9月13日八戸県と改称し,さらに同月19日には三戸県と改称し,三戸村に県庁が置かれた。同年11月3日,旧会津藩が斗南(となみ)藩を立藩し,三戸県のうち当郡および二戸・北の3郡で3万石を領有した。これにより,当郡の旧盛岡藩領はすべて斗南藩領となり,当郡は八戸藩領と斗南藩領から構成されることになった。一方,三戸県は,斗南藩領分が分離したため,残余の九戸郡・鹿角郡および二戸郡の一部のみでは一県としての体をなさなくなったため,同年11月28日三戸県は廃止されて江刺県に併合された。明治4年7月14日,廃藩置県により八戸藩は八戸県,斗南藩は斗南県となり,同年9月5日,両県はともに弘前県に統合された。弘前県は同月23日青森県と改称し,以後三戸郡は青森県に所属する。青森県への書継書類によれば,当郡内の旧八戸藩領は78か村・草高2万1,744石余,旧斗南藩領は50か村・草高2万2,048石余とある(県史8)。同4年11月旧五戸代官所に青森県の五戸支庁が開設され,三戸郡・二戸郡および北郡の一部を管轄し,翌5年三戸村に支庁が移ったが,翌6年3月には廃止された。同6年大区小区制施行により,旧盛岡藩領26か村のうち八幡村を除く25か村が第8大区に,旧八戸藩領41か村に八幡村を加えた42か村が第9大区に所属した。明治初年の「国誌」によれば,第8大区は6小区からなり,所属村は五戸町も含めて50か村,大区会所は五戸町に置かれ,戸数7,096・人口3万7,900,第9大区は7小区からなり,大区会所は八戸町に置かれ,所属村は1町(八戸町)・70か村,戸数7,978・人口5万6とある。また,当郡を概況して「東は東洋を臨み,西は鹿角郡に界,南は東は陸中国九戸郡西は二戸郡に隣り,その三戸・八戸の地は平田あり,余は皆山間渓水に添て僅に稗田を耕し,東海は漁猟あり,八戸は旧南部氏の分家治城にして小南部の称ある此郡の富邑なり,五戸・三戸は東京より北海道の駅路なれば風俗も稍鄙なら」ずと記す。明治11年郡区町村編制法の施行により,あらためて近代郡制として発足。郡域は旧第8大区と第9大区で,江戸期と変化はない。郡役所は八戸に置かれた。明治12年の戸数1万4,874・人口9万531,牛2,436・馬1万9,717,荷車55・人力車189・船舶31,物産に米・麦・雑穀・蔬菜・魚類・乾物・木材・薪・炭・海草・麻糸・酒類・鳥類などがある(共武政表)。同22年市制町村制施行により,三戸郡内では,旧第8大区内に,三戸町と,五戸・川内・市川・倉石・戸来・野沢・浅田・豊崎・平良崎(へらさき)・向・猿辺・斗川・留崎・田子・上郷の15か村,第9大区内に八戸町と,長者・館・上長苗代・下長苗代・鮫・小中野・湊・大館・階上(はしかみ)・是川・島守・中沢・名久井・北川・田部・地引の16か村,計2町31か村が成立した。同34年長者村が八戸町に合併。大正4年に五戸村,同13年に小中野村・湊村,昭和3年に田子村がそれぞれ町制施行した。昭和4年八戸町・小中野町・湊町・鮫村が合併して八戸市が成立。同17年下長苗代村が八戸市に合併した。同24年田部村の一部が北川村に編入。同29年是川村が八戸市に合併した。同30年館村・市川村・上長苗代村が八戸市に合併,さらに同年豊崎村の一部は五戸町に,残部は八戸市に合併した。同年留崎村・斗川村・猿辺村が三戸町に合併,川内村・浅田村と野沢村の一部が五戸町に合併,上郷村が田子町に合併,北川村・名久井村が合併して名川町が成立,地引村・田部村が合併して福地村が成立,向村・平良崎村が合併して南部村が成立,戸来村と野沢村の残部が合併して新郷村が成立した。同32年島守村・中沢村が合併して南郷村が成立,同33年大館村が八戸市へ合併。同34年に南部村が,同55年に階上村がそれぞれ町制施行した。ここに当郡は倉石村・五戸町・三戸町・新郷村・田子町・名川町・南郷村・南部町・階上町・福地村を編成し,現在に至る。世帯数・人口の推移は,大正9年2万2,702・13万8,560(職業別人口は,農業8万7,034,水産業8,537,鉱業229,工業1万2,617,商業1万4,494,交通業4,124,公務・自由業4,723,その他の有業4,133・家事使用人46・無職業2,623),昭和15年1万8,127・11万3,572,同55年2万3,569・9万4,670。当郡は八戸市を含めて三八地域と呼ばれ,行政的にも社会経済的にも一体感を持っており,第2次大戦中三戸郡地方事務所が八戸市に置かれたのを初め三八教育事務所・同福祉事務所などが八戸市に置かれている。農業は江戸期と同じく畑作農業が優勢で,馬淵(まべち)川流域の南部・名川・三戸の3町は,いわゆる三戸林檎ならびに食用菊の産地を形成しているほか,各地で葉煙草・ナガイモ・ニンニクやその他の野菜,ブドウ・サクランボ・カキなどの生産が行われている。昭和39年八戸市は,十和田市・三沢市・百万石・六戸町・下田町・上北町・五戸町・福地村の3市5町1村を地区とする新産業都市の指定を受け,全国15新産業都市の中でも上位の工業出荷額をあげているが,このため,八戸市以外の町村の出稼人口の減少,野菜栽培農家の増大が目立っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011100