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塩町?
【しおまち】


旧国名:陸奥

(近世~近代)江戸期~昭和43年の町名。明治14~22年は汎称として青森を冠称。江戸期は青森町のうちの1町。堤川河口部左岸の海岸平野に位置する。北側は青森湾沿岸部にあたり,南方には青森平野が広がる。旧市街地の東部にあり,東は莨町,南は博労町,西は大町,北は蜆貝町にそれぞれ接する。当町は寛文年間の絵図に「本町通派」と見え,本町(のちの大町)から分かれて成立したものと思われる。寛文4年に新たに町立され,同年以降5年間は無役,その後1軒につき地子銀10匁の上納が命ぜられた(青森市沿革史)。同8年青森における塩の販売独占権が当町に与えられた。同11年には,莨町とあわせて家数44(同前)。「貞享4年検地水帳」によれば,当町の屋敷数30,屋敷地の面積は1町4反9畝5歩,この分米は11石9斗5升7合とある。同年の当町名主は権左衛門・新右衛門・七郎兵衛の3人であった(同前)。享保10年の青森町惣家別相改帳(八木橋文庫蔵)には,町の南側に36人,同北側に37人の町人が記されている。天明元年の大町・塩町・莨町3町の町役は87軒半,1か月2度人足175人で,同年は加賀屋専助が年間賃銭2貫100匁で一手請負をしている(青森市沿革史)。寛文8年以降当町の塩商人によって塩値段が低く設定されたため,製塩業者と塩商人との間に紛争を生じ,元禄3年には製塩業者持ち込み分に限って当町以外での脇売りが認められた(同前)。当町の塩販売独占を中心とする町場の機能は,元禄8年の飢饉による被害で失われた。同飢饉により当町の町人は死絶し,宝永2年に至るまで荒廃していたが,当町名主皆川吉兵衛が宿・芝居小屋を当町に設け,あわせて洗濯女の名目で遊女を置くことを上申し,許可された。同町の遊女は延享元年他町への出入りを禁止され,寛政元年に至って町の造作を江戸吉原風に建て直し,遊郭として完成した(同前)。遊女の人数は,元禄15年24~25人,寛政11年楼主10,娼妓52(出身は領内36・秋田11・南部3・松前1・不明1)であった。また,時期は不明だが,芝居小屋として当町に永井座・青森座・中村座があったという(青森市町内盛衰記)。幕末から明治にかけて,当町で萩原常吉が寺子屋を開いた(青森市史)。文久元年3月の青森大火では,当町の本家9・借家39・土蔵1が焼失し(青森市沿革史),明治5年3月の火災で全町を焼失した(青森市町内盛衰記)。明治初年の戸数85,大町との間に塩町橋がかかる(国誌)。明治9年当町だけが貸座敷地に定められた(青森市沿革史)。同13年当町に紙箱製造工場が設立された。同22年青森町,同31年からは青森市に所属。明治22年火災に見舞われたことを契機として江戸期から続いた遊郭は柳原(茶屋町)に移転し,当町は中村座・文芸座などの芝居小屋と商店街となる。同年の戸数78・人口451,反別は宅地2.1町余のみ(青森市史)。同32年味噌醸造会社,大正2年には貸席業,同4年菓子製造,同7年樋製造業,昭和9年委託販売仲立業,同10年洋品店,同12年物品賃貸業などの工場・企業が当町に設立されている。同43年青柳1~2丁目・本町1~5丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011117