四和村
【しわむら】

(近代)明治22年~昭和30年の上北郡の自治体名。相坂川(奥入瀬(おいらせ)川)の支流藤島川と後藤川沿いに位置する。伝法寺・米田(まいた)・滝沢・大不動の4か村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。村名は4か村が和衷協同して,豊かな住みよい村づくりを願ってつけられたという。役場を米田に置いた。初代から4代,明治43年までの村長は旧斗南(となみ)藩士(会津出身者)によって占められていた。明治24年の戸数460・人口3,372,廐336,学校4,水車17(徴発物件一覧)。後藤川利用の上水は,明治24年頃の後藤川上水普通水利組合が最初である。しかしこれによる灌漑利用の多くは六戸村柳町・鶴喰であったから,滝沢・米田や三戸郡倉石村の関係者によって取水計画が進められた。同29年この計画は,後藤川上水普通水利組合から水不足を理由に拒絶された。そこで水量調査を行い,設計変更し,ようやく飲料用水工事として起業許可が下りたのは同33年である。この滝沢上水は土質の悪さもあって苦心に苦心を重ね,完成をみたのは同38年であった。この間学校建築が相継ぎ,明治30年大不動尋常小学校・米田尋常小学校が新築され,同年米田尋常小学校長下分校が新築設置された。次いで同32年滝沢尋常小学校・同33年伝法寺尋常小学校の各校舎が新築された。日露戦争後は軍用馬の需要が高まってきたが,それまで農耕馬によって占められてきた四和村では,早急に馬産の改良が求められた。同42年には村全域を対象とする米田信用組合が設立された。そうしたなかで,ことに明治35年・大正2年と続いた大凶作は村政にも大きな打撃となった。四和村はそれまで経済的にも文化的にも,三戸郡五戸村に依存していたが,三本木町の進展に伴い同町との結びつきが求められていた。大正年間を通じ,当時の首長は「道路村長」といわれるほど,道路整備事業を進めていった。大正9年の世帯数616・人口4,132,内職業別人口は農業3,853,水産業1,工業34,商業85,交通業29,公務・自由業79,その他の有業26・無職業25。以後の世帯数・人口は,昭和15年644・4,479,同30年785・5,512。大正13年藤坂村との間で境界変更実施。同14年伝法寺・米田・滝沢・大不動の4尋常小学校一斉に高等科が併設された。昭和初期には養蚕業が盛んになり,同8年頃からリンゴの栽培も試みられ,同12年には100町歩に達した。一方軍馬の需要がたかまるにつれ,放牧・採草地の広いことなどの条件をいかし,馬産の改良にも取り組む人もふえた。昭和13年には滝沢牧野組合も設立された。こうした努力にもかかわらず零細小作農が大半を占め,経済基盤の遅れは否めず,第2次大戦後の農地改良を待たなければならなかった。昭和22年各小学校に併設して,伝法寺・米田・滝沢・大不動4中学校が発足,同年長下分校が小学校に昇格した。農地解放によって,新しく桜平・盲沼・和田山・伝法寺平などの開拓地が,昭和21~27年に誕生した。水田化も進んできているが,小河川が多く水争いがつきまとい,未だに根本的解決がなされていない。また森林の乱伐により,後藤川がしばしば氾濫を繰り返すようになった。昭和25年後藤川上流に四和防災ダムの建設工事が着手され,同28年防災ダムの機能を十分に発揮できるように保安植林事業が進められた。この四和防災ダムが完成するのは同36年であるが,それより,以前昭和30年に三本木市の一部となり,村制時の4大字は同市の大字に継承。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7011364 |