新寺町
【しんてらまち】

旧国名:陸奥
(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治初年~明治22年は弘前を冠称。江戸期は弘前城下の1町。城郭の南側に位置し,北は南溜池に接する。日暮橋で続く銅屋町から西の久渡寺道に至る道筋の町で,当町の中程から北へ唐金橋で在府町と連絡し,その西で北へ折れて寺沢橋で茂森町に続く。当町は,慶安2年の寺町(元寺町)大火により焼失した寺院の移転のため,翌3年に町割りされ(津軽一統志),町名の由来は元寺町に対する。万治2年の津軽弘前古絵図には町名はないが屋敷割りはされ,法源寺ほか7か寺の寺割りと寺名が記されている。寛文13年の弘前中惣屋敷絵図では,元寺町から移転してきた法凉山円明寺(浄土真宗),宝幢山法立寺(日蓮宗),妙法山妙覚院本行寺(日蓮宗僧録所),月窓山栄源院貞昌寺(浄土宗僧録所),法輪山真教寺(浄土真宗僧録所),一乗山専徳寺・遍照山法源寺(浄土真宗)と一輪山桂光院報恩寺(天台宗),大行院(修験,現廃寺)および光明山遍照寺(貞昌寺末寺)が見え,町屋46軒がある。このうち報恩寺は,明暦2年に3代藩主津軽信義の菩提を弔うために江戸寛永寺の末寺として建立された領内天台宗の僧録所で,塔頭として観明院・光前院・正善院・一乗院・了智院・理教院の6院がつくられ(現在すべて廃寺),また西側には念仏堂,東側には観音堂が配置された。このため報恩寺の辺りは報恩寺門前とも呼ばれた。また領内修験司頭で,京都醍醐寺三宝院の末寺大行院は,慶長17年の創建で,承応2年に八幡郷(現中津軽郡岩木町か)から当町に移り,宝暦4年には西茂森町へ移転した。延宝6年の弘前町方屋敷割では,当町には寺院のほか45軒の町屋と武家屋敷1軒がある。享保6年の町割帳には塔頭も記入されており,円明寺に平等山浄徳寺,法立寺に境智窟本迹院と南栄院,本行寺に満行院・臥竜窟受源院,貞昌寺に大福山天徳寺・円城寺・縁亀山徳増寺・行岳山西光寺・松林山西福寺・光明山遍照寺,真教寺に無量山教応寺と光明山正蓮寺,一乗山専徳寺に和秀山浄竜寺と三光山明教寺,法源寺に玄徳寺があった。また同10年には慈雲院が建立されたが,これは城下に黄檗宗寺院がなかったため長勝寺末の法雷山慈雲院を改宗して当町に移したものである。宝永4年には稲荷神社の別当寺院として江戸浅草から白狐寺が勧請された。宝暦6年の弘前町惣屋鋪改大帳では,町屋108軒があり,うち貞昌寺門前1・報恩寺門前1・白狐寺門前12と御用地2か所が見える。同9年大行院の跡地へ代官町から万能寺が移転してきた(平山日記)。「享和3年寺社領分限帳」には貞昌寺末寺の白道院が見える。明治初年の廃仏毀釈により,本行寺末の満行院は受源院に,貞昌寺塔頭の円城寺は徳増寺に,同白道院は遍照院に合併され,法源寺末の玄徳寺および白狐寺は廃寺となった。また報恩寺は,前記の6子院と旧念仏堂の善入院,旧観音堂の無量院が廃寺となり,覚王院跡へ樋口村にあった那智山袋宮寺が移転した。幕末~明治初年にかけて,町内から新寺町新割町・北新寺町が分立した。なお,南溜池は城下防衛の役割がなくなり,市内小学校の学田となった。明治初年の「国誌」によれば,戸数234,うち寺院14,町域は「上は日暮橋より下は樹木派に至る長九丁三十六間二尺幅五間四尺,南側は寺院北側は民家あり,又町中程より北に通り唐銅橋に至る長五十六間,西の方町中より北茂森通土橋に至る長一丁十八間二尺」と見える。明治22年弘前市に所属。慈雲院は明治以降も衰退しながら存続し,花の名所として知られたが,大正4年県立弘前中学校(明治25年元寺町の校舎焼失によって,同27年当町に新築移転し,同28年県第一尋常中学校,同34年県立第一中学校,昭和23年県立弘前高校と改称)の校地拡張で消滅した。報恩寺の墓地にあった3代信義・4代信政・5代信寿・6代信著・7代信寧・8代信明・9代寧観・10代信順・11代順承の各藩主および順承の世子承祜の墓は,昭和29年すべて西茂森町の長勝寺へ移された。その際承祜の遺体は屍蝋として発掘された。世帯数・人口は,昭和30年502・2,171,同50年733・1,902,同55年680・1,538。一部が,昭和42年桔梗野1丁目・樹木1丁目となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7011398 |