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新町?
【しんまち】


旧国名:陸奥

(近世~近代)江戸期~現在の町名。昭和43年からは1~2丁目がある。明治14~22年は汎称として青森を冠称。江戸期は青森町のうちの1町。堤川河口部左岸の海岸平野に位置する。北側は青森湾沿岸部にあたり,南方には青森平野が広がる。旧市街地の西南部にある。地名の由来は,青森の中心部であった大町(本町)・米町・浜町のあとにできた新しい町であることによる(国誌)。当地は寛永年間に町立てされた青森町の周辺部で,はじめ百姓町であったが,寛文11年百姓を立ち退かせ町屋敷地として取り立てられ,柳町・鍛冶町・大工町とともに成立する。新町・柳町は,翌12年から8か年間屋敷地1坪につき米5勺の畑年貢,年期明け後屋敷1軒につき地子銀10匁の上納が命じられた(青森市沿革史)。当町は東西に長く,西側から上新町・中新町・下新町に分けられ,3町に分けて把握されることもあった。東は寺町,西は古川村,北は安方町にそれぞれ接する。寛文11年の町立てとともに,当町の中心部に御仮屋が建築され,弘前藩家老大道寺宇左衛門,および普請奉行2人が建設の指揮をとった。四周に柵・土塁・濠を設けて,東西71間・南北68間の規模であった。初代の城代は大道寺宇左衛門が就任(同前)。延宝元年には御殿が建てられ,貞享3年からは城代を置かず,青森町奉行が管轄した。寛文11年には柳町・鍛冶町・大工町とあわせて家数189(同前)。同13年当町に生肴・青物の六斎市が開設され,外ケ浜における独占販売が認められた。しかし,脇売りも進み,当町では7月・12月の年2度の市しか立たず,元禄7年には当町のみで2と7の日に市立てすることを町奉行に再確認している(同前)。それでも,江戸中期には当町による生肴・青物の販売独占は成り立たなくなったと思われる。「貞享4年検地水帳」によれば,上新町の屋敷数38,屋敷地の面積は1町8反6畝2歩,この分米は14石8斗2升1合,中新町の屋敷数28,屋敷地の面積は1町1反7畝25歩,この分米は10石5斗9升9合,下新町の屋敷数19,屋敷地の面積は7反4畝21歩,この分米は7石4斗7升9合で,合計屋敷数85,屋敷地の面積3町7反8畝18歩,この分米32石8斗9升9合。同年の上新町名主は源右衛門,中・下新町をあわせたと考えられる新町名主は庄右衛門・弥左衛門・六左衛門・善右衛門で計5人とある(同前)。「国日記」宝永4年7月10日条によれば,新町3町とも衰微し,とくに上新町は諸役負担もできず町屋敷の修理もままならないという。これは元禄末年の飢饉の影響と思われる。正徳4年の調べによると,当町には佐藤屋才兵衛・小田善右衛門・万屋七郎右衛門の3人の酒造業者がいた(同前)。享保10年の青森町惣家別相改帳(八木橋文庫蔵)によれば,上新町の南側に35人,北側に38人,下新町の南側に23人,北側に29人,それぞれ町人と百姓の居住が記されている。なお,この時当町は上・下2町として把握されている。元禄7年の絵図では,当町は青森の西端に位置しており,町内に4か所の辻番所があり,当町の南側に藩蔵が見えている(津軽史)。この藩蔵は元文4年に増築され,藩領内の浦町組・横内組・油川組に属した88か村の年貢米を収納した(県租税誌)。新町と北側の安方町との間にはいくつかの通りがあり,西側から,一念坊という庵室にちなみ一念坊小路,南端に御仮屋のあったことにちなみ大手通,同じく藩蔵にちなみ御倉之通と呼ばれた。なお,御倉之通は,南の新町寄を広小路(弘小路)と称した。寛政3年の青森町内の橋架調べによれば,当町には,北に一念庵の橋,大手先の橋,東に御倉前新町米町の境橋,西に上新町古川境橋,ほかに上新町通橋,御仮屋前橋,同横町橋,下新町中新町境橋,新町寺町境橋がある(青森市沿革史)。天明元年の当町の町役は77軒分,1か月2度人足154人で,同年は加賀屋専助が年間賃銭1貫848匁で一手請負をしている(同前)。神社は,当町中央部の広小路に市神がある。宝暦3年に創建されたといい(安政2年神社書上帳),明治初年には棚機神として信心される(国誌)。寺院は,当町の南側に浄土真宗照林山安定寺がある。同寺は,はじめ黒石円覚寺念西和尚が,元禄6年青森町奉行屋敷(もと御仮屋)の後方に円覚寺道場として開創し,のち元禄16年現在地に移転し寺号を得て安定寺となったものである。文政8年7世住職寿教和尚により寺子屋が開設され,のち意教・大静和尚と明治20年頃まで続き,学んだ者は3,000人にのぼった。この中から,明治・大正期青森市で活躍した名士を輩出している(青森市史)。天明3年11月の青森大火で当町は一念坊角より毘沙門角まで通りの両側を焼失,安政6年5月の大火では当町の本家143・借家20を焼失した(青森市沿革史)。明治4年県庁が弘前から青森へ移され,旧御仮屋が県庁庁舎として使用された。明治初年の戸数213,町並みは「西は三小区古川村に通す,東は寺町に続き,長五丁四十四間三尺・幅三間,下の方幅八間」という(国誌)。明治7年もと寺町正覚寺に設けられていた青森小学が当町に新築移転した。翌8年増築して青森女小学が開校。両校はのち合併し,現在は長島小学校となって長島3丁目に所在する。明治9年には倉庫を修築し,仮校舎として青森小学師範学校が開校,同12年師範学校内に青森専門学校が開設する。同13年には英学をも学科とする私立の協同学校が青森小学内に設けられた。同17年に青森中学校が開校,同20年には青森尋常中学校と改称,同22年弘前元寺町へ移転する(青森市史・県教育史)。このように,青森の文教施設が当町に集中していた。明治22年青森町,同31年からは青森市に所属。明治22年の戸数103・人口1,360,反別は宅地5町余のみ(青森市史)。同24年日本鉄道(現国鉄東北本線)が開通,明治末年に青森駅の乗降口が当町に設けられたことを契機に,大正期から繁栄し始めた。大正期から昭和初期にかけて呉服店・書籍店などが出店している。なお,明治37年には青森精米会社が開業している。昭和43年一部が安方1~2丁目となり,同時に残部の地域と古川・大野・柳町・米町・寺町の各一部をもって1~2丁目を起立。現在は,青森駅から東へのびる新町通りが青森市の中心街をなしている。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011409