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富根町
【ふねちょう】


旧国名:陸奥

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治初年~明治22年は鰺ケ沢(あじがさわ)を冠称。江戸期は津軽四浦の1つ鰺ケ沢町のうちの1町。鰺ケ沢湾西方に位置する。北側は日本海に面し,南方には丘陵地が広がる。西は淀町,東は漁師町に接する。船町とも書き,町名は弘前藩の御早船蔵が置かれていたことによるものと思われる。当町の成立は文化2年といわれ(西津軽郡史),元禄16年の鰺ケ沢絵図では水田であった。なお,寛政9年の定によれば,当町のうち27軒の地子銀は1反歩20目となっており(県租税誌),当町の成立時期を寛政年間頃と考えることもできる。当町には御船頭3人がおり,御早船3艘を取り扱った(諸役勤務書)。文化4年に藩蔵が築造されたが,天保12年大波により破損した(永宝日記)。なお,翌13年の火災でも藩蔵2棟が焼け,米7,000俵を失っている(同前)。安政3年新たに御蔵が建てられた(国日記)。幕末には当町で興行が盛んに行われた。安政4年には江戸角力,翌5年には芝居があり,中田屋理三郎の名が興行主として伝えられる(永宝日記)。また,同6年には仙台の者による軽業興行も見られた(国日記)。嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」には,「舟町町長凡弍丁斗,小商人のミ也,又鍛冶屋,舟大工等有る也」と見える。元治元年の岩崎村弁天宮奉加帳には,当町の町人として,清野徳右衛門の名がある。文化・文政年間以降,海防問題が高まると,弘前藩は鰺ケ沢防備のため砲台を築いた。文政4年砲7門が置かれる。この台場は,当町の浜に設けられた(西津軽郡史)。しかし,万延元年当地を訪れた兼松石居は,その有効性に疑問を投げかけている(鰺ケ沢町史)。当町山手の曹洞宗薬王山延寿院は七ツ石町高沢寺の末寺で,承応2年に同時末庵として開かれた。明和3年大地震の被災者供養塔がある。明治初年の戸数45,町域は「上は淀町より下は猟師(漁師)町まて一丁五十二間三尺広六間」といい,町の北側に旧藩蔵があった(国誌)。この蔵は,のち明治10年の火災で焼失した(年中日記)。同22年市制町村制施行により成立した鰺ケ沢町に所属。大正4年の戸数51・人口350。なお,昭和41年に延寿院の円空作菩薩坐像(江戸期,寺伝 薬師如来像)が県重宝に指定された。伝承では漁網にかかり海中からあがったとされる。世帯数・人口は,昭和40年83・423,同45年75・353,同50年73・320,同59年77・246。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7012794