盛岡藩
【もりおかはん】

旧国名:陸奥
(近世)江戸期の藩名。陸奥国岩手郡盛岡に居を構え,陸奥国北部の広大な地を領有した外様大藩。南部藩ともいう。戦国末期,九戸政実を押えて陸奥国北部を領した南部信直は,領国支配権の承認を得るため天正18年4月下旬,豊臣秀吉の小田原の陣に参陣し,さらに同年7月奥州出陣途上の秀吉に宇都宮で謁し,同月27日「南部内七郡」の領知安堵の朱印状を得て,近世大名の地位を確保した。しかし,津軽地方で独立の歩みを進めていた南部氏の一族である南部為信は,信直より一足早く小田原在陣中の秀吉に謁し,領知安堵の承認を得ていたため信直は津軽地方を失った。この「南部内七郡」がどの地域を指すかについては,北・三戸(以上青森県)・二戸・九戸・閉伊・岩手(以上岩手県)・鹿角(かづの)(秋田県)であるとする説もあるが,近年では糠部(ぬかのぶ)・閉伊・岩手・鹿角・紫波(しわ)(志和)・稗貫・和賀の7郡とする説が有力視されている。翌天正19年南部信直の相続に反対の九戸政実は,七戸氏・櫛引氏・久慈氏らと結んでいわゆる九戸政実の乱を起こしたが,同年9月豊臣秀次を総大将とする奥州征討軍のために敗れた。信直は九戸政実の乱後,世子利直を三戸城に置き,自らは宮野城(九戸城)に入り,これを福岡城と改称した。その後,浅野長政の奨めにより,文禄2年秀吉から不来方(こずかた)(盛岡)築城の許可を得,慶長4年居城を移した。しかし,この地は度々洪水に見舞われ,そのつど居城が三戸城・福岡城と変わり,盛岡城が本格的に居城と定まったのは,重直の代,寛永10年(一説に寛永12年とも)のことであった。利直は,慶長5年7月徳川家康の命により,会津の上杉景勝征討の軍に参加し,慶長19年大坂冬の陣にも参軍して,近世大名としての地位を不動のものとした。しかし,家康・秀忠の代には領知宛行状の下付はなく,28代重直の代,寛永11年閏7月12日付の「領内郷村目録」と同年8月4日付の「陸奥国北・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・志和・稗貫・和賀十郡都合拾万石〈目録在別紙〉事 如前々全可令領知状如件」(盛岡市中央公民館蔵)という内容の領知判物を将軍家光より賜わり,名実共に備った盛岡藩が誕生した。中世末期戦国大名の地位を占めていた八戸根城南部氏は,秀吉から領知朱印状を得ることが出来ず,元和3年同氏清心尼がその所領の下北地方を八戸沿岸の南部氏領23浜役の所務収納権と交換させられ,さらにその翌年その領地1万2,500石が南部氏によって検地されるに及んで完全に宗家南部氏に従属する身分となった。その後寛永4年南部直栄(はじめの直義)の代に,宗家南部利直により伊達氏(仙台藩)に対する備えとして遠野(岩手県)へ所替えさせられた。藩主の変遷は,南部信直(大膳大夫,天正10年~慶長4年在職),利直(信濃守,慶長4年~寛永9年在職),重直(山城守,寛永9年~寛文4年在職),重信(大膳大夫,寛文4年~元禄5年在職),行信(信濃守,元禄5年~同15年在職),信恩(備後守,元禄15年~宝永4年在職),利幹(信濃守・大膳亮,宝永5年~享保10年在職),利視(修理大夫・大膳大夫,享保10年~宝暦2年在職),利雄(信濃守・大膳大夫,宝暦2年~安永8年在職),利正(修理大夫・大膳大夫,安永9年~天明4年在職),利敬(大膳大夫,天明4年~文政3年在職),利用(大膳大夫,文政3~8年在職,ただし利用を名乗る藩主は実際には2人おり,第1の利用は文政4年に将軍との謁見を済まさないうちに急死したので,藩は幕府にその死を秘して第2の利用をたてた),利済(信濃守,文政8年~嘉永元年在職),利義(甲斐守,嘉永元年~嘉永2年在職),利剛(美濃守,嘉永2年~明治元年在職),利恭(甲斐守,明治元年~明治3年在職)。盛岡藩は,表高は前記10郡10万石であるが,内高は20万石といわれ,寛永11年の領内郷村目録では北郡1万320石余・二戸郡1万2,194石・三戸郡3万6,858石余・九戸郡1万3,026石余・鹿角郡1万4,882石余・岩手郡2万2,780石余・紫波郡2万8,323石余・閉伊郡2万3,284石余・稗貫郡2万3,680石余・和賀郡2万202石余の合計20万5,554石余とある。正保4年幕府へ届け出た「正保郷村帳」によれば,岩手郡55か村・1万429石余(田8,562石余・畑1,867石余),紫波郡51か村・1万3,868石余(田1万1,964石余・畑1,093石余),稗貫郡52か村・1万2,867石余(田1万1,291石余・畑1,576石余),和賀郡44か村・1万2,162石余(田1万435石余・畑1,726石余),鹿角郡33か村・6,617石余(田5,231石余・畑1,386石余),閉伊郡94か村1万941石余(田5,273石余・畑5,668石余),九戸郡42か村・6,225石余(田2,790石余・畑3,435石余),二戸郡48か村・6,213石余(田3,440石余・畑2,772石余),三戸郡67か村・1万6,439石余(田1万297石余・畑6,142石余),北郡52か村・4,784石余(田3,125石余・畑1,658石余)の合計10万5,065石余(岩手県史)。寛文4年南部重直が継嗣を定めず死亡したため南部氏はいったん断絶し,新恩として重直の弟重信を藩主とする8万石の盛岡藩が改めてたてられ,その弟直房を藩主とする2万石の八戸藩が立藩された。八戸藩への所領の分割は,実際には翌5年に行われ,同年の領地書上目録(八戸藩史料)および従大膳大夫様御文通之写(上杉家文書)では,三戸郡内41か村・1万585石余,九戸郡内38か村・6,225石余,紫波郡内4か村・3,190石余の計2万石で,内高は三戸郡内2万1,119石余,九戸郡内1万3,209石余,紫波郡内5,865石余であったという。所領高の減少をみた盛岡藩では,寛文9年以降南部重信の代に新田開発を促進し,寛文6年から天和3年にいたる領内総検地の結果は出目と新田を合わせて25万石近くの内高を記録した。このため,天和3年には表高8万石に新田高2万石を加増されて再び表高10万石の大名に復した。この結果,貞享元年の郷村帳によれば,岩手郡54か村・1万2,223石余(内高3万6,971石余),紫波郡48か村・1万3,615石余(内高4万411石余),稗貫郡52か村・1万5,112石余(内高4万2,449石余),和賀郡42か村・1万4,290石余(内高4万4,776石余),閉伊郡91か村・1万3,666石余(内高2万6,066石余),九戸郡3か村・646石余(内高921石余),二戸郡48か村・7,743石余(内高1万3,953石余),鹿角郡33か村・8,272石余(内高1万8,358石余),三戸郡26か村・8,445石余(内高1万8,013石余),北郡50か村・5,983石余(内高記載なし)の合計447か村・10万石(内高24万1,921石余)となっている(岩手県史)。その後,元禄7年には,藩主行信が弟の南部主税政信(政康)に5,000石,同じく南部主計勝信に3,000石を分知して,幕府の旗本として出仕させた。主税政信は江戸の麹町に屋敷があったため麹町侯とも呼ばれ,知行所は和賀郡内6か村・4,638石余,二戸郡内8か村・361石余の計5,000石,主計勝信は同じく三田侯とも呼ばれ,知行所は和賀郡内8か村・2,956石余,二戸郡内2か村・43石余の計3,000石となっている。これらの知行所のうち,村一円を領したのは2か村のみで,他の諸村はいずれもその村のうちの新田分であった。しかし,宝永3年両氏ともにその給知を盛岡藩からの現石・現金支給に変更され,知行所は再び盛岡藩領に編入された。文化5年利敬の時には,蝦夷地東部の警衛を幕府より命じられ,所領はそのままに20万石に格上げされた。内高は20万石あるいは28万石ともいわれたものの,軍役負担は20万石に相応して課されることになったため,当藩にとっては過重な負担となった。文政2年には幼少の藩主利用を補佐するため,5,000万石の旗本南部信鄰(麹町侯)に6,000石を分与し,合わせて1万1,000石として諸侯に列した。これを盛岡新田藩と称したというが,明治2年に七戸に居を構えたことから七戸藩と称されることが多い。しかし領知高1万1,000石は盛岡藩の蔵米から1万1,000俵が与えられ所領を有しなかったので藩の実態はなかった。のち幕末~明治2年に北郡七戸を中心とした38か村・1万384石余を領し,正式に七戸藩が成立した(明治2年陸奥国北郡之内郷村高帳)。なお,貞享2年自領の七崎村(八戸市)を八戸藩領の侍浜村・白米村(久慈市)と交換し,両藩の藩領が確定した。正徳3~4年には盛岡藩領馬門村と弘前藩領狩場沢村とにまたがる烏帽子山(堀差山)をめぐる境論があったが,幕府の裁定により尾根通りが境とされ,当藩側が敗訴した。後世,巷間に「桧山騒動」という。また,これより先正保2年秋田藩との間に鹿角郡について境論があったが,これも当藩側の不利に終わっている(南部史要)。これらの所領の村数は,寛永20年改で688か村(邦内貢賦記),「正保郷村帳」では538か村,「貞享高辻帳」447か村,「安政高辻帳」449か村とある。しかし,表高と内高とが大きく乖離しているのと同じく,郷村についても幕府へ届け出ている村名・村数と領内で把握されているものとにかなりの相違があった。例えば,「邦内郷村志」で村として把握されているのは708か村で,享和3年の「本枝村付並位付」では末尾に合計村数を「都合」425か村と記しているが,同書に見える村数の実数は725か村を数えることができる。幕府に届けられていない村は,「仮名付帳」には枝村と記されているものが多いが,「旧高旧領」に至ってそのほとんどが独立した一村として記載されるようになる。領内で掌握されている村が実質的な村であったのであろう。当藩の重臣に対する呼称とその構成員は,時期により異なり判然としない面もあるが,おおむね次のようであった。「御一家」は南部氏の始祖光行の男で糠部に下向した一戸氏・七戸氏・四戸氏・九戸氏およびのちに八戸に下向した根城南部八戸氏の5氏,「御家門」は南部政康より出た南氏,時実より出た東氏,八戸氏の3氏,「御三家」は東氏,時実より出た北氏,南氏の3氏,または八戸氏・北氏・中野氏の3氏,「御親族」は信時より出た野沢氏,政康より出た石亀氏および毛馬内氏の3氏,「家の子」は目時氏・津村氏・神氏・津島氏・岩間氏の5氏,「四天王」は光行に従い甲州より下向した三上氏・桜庭氏・安芸氏・福士氏の4氏,「幕の後」は奥瀬氏・沢田氏・切田氏・米田氏・吉田氏・転法寺(伝法寺か)氏・下田氏の7氏。江戸初期には七戸隼人正重政(重信)・八戸弥六郎直栄・中野吉兵衛元保・北九兵衛宣継・桜庭兵助由之・毛馬内九左衛門長次・江刺兵十郎長房・奥瀬治大夫善定・葛巻新六郎元祐・野田左近親賢・内堀織部宣政・漆戸勘左衛門正茂の12人が「高知12人」と称されていた。藩政を総轄する家老は以上の重臣の中から選ばれるのが常例であったが,多少の変遷を経て,江戸後期には八戸氏(遠野南部氏)・中野氏・楢山氏・北氏・石山氏・桜庭氏・毛馬内氏・奥瀬氏・東氏・南氏の中から5~8人が選任された。南部氏の家紋は武田菱であったが,近世以降,向かい鶴をも用い,また船印・衣服紋には違い菱も用いた。藩制機構には藩主の下に最高顧問格の御家門,御三家を置き,直接藩政を総轄する者としては御席詰・大老・家老があり,その下に役方諸職として御用人所・目付所・勘定所が置かれた。御用人所は藩の庶務万般を掌り,目付所は司法を,勘定所は財政を掌った。このほかに留守居役が江戸および国元に置かれ,藩主不在間の連絡に当たった。江戸の上屋敷は外桜田十八丁,中屋敷は品川大崎村・麻布三光坂,下屋敷は麻布南部坂にあり,江戸城中の詰所ははじめ柳間,のち20万石昇格後は大広間となった。当藩領は,「三日月の円くなるまで南部領」といわれるほど広大な領域を占めていたので,その所領支配のため,江戸初期には各地に城代が置かれ,また代官区としての通制度が設けられていた。江戸前期には盛岡城のほかに,福岡城(盛岡城完成後寛永年間に廃された)・郡山城・花巻城・岩崎城・土沢城・横田城(遠野城)・大槌城・三戸城・野辺地城・七戸城・根城・八戸城・毛馬内城・花輪城などの城館があって地方統治の中心となっていたが,国境警備の重要性が減少するにつれて江戸前期に多くは廃されていき,文化元年の幕府への書上では,居城として盛岡城,抱城として稗貫郡花巻城,要害屋敷として閉伊郡遠野城・鹿角郡花輪城・同郡毛馬内城・北郡七戸城・同郡野辺地城を届け出ている(岩手県史)。藩の地方支配には,これらの城館とともに各地に代官が置かれていたことはいうまでもない。盛岡藩では,いくつかの代官支配の形態の変化ののち,寛文6年~天和3年の領内総検地の過程において通と呼ばれる代官支配の行政単位が確立していった。領内は33の通に区画され,その33通とは上田通・厨川(くりやがわ)通・見前通・向中野通・飯岡通・雫石通・沼宮内(ぬまくない)通・日詰通・長岡通・伝法寺通・徳田通・八幡通・寺林通・万丁目通・二子通・高木通・安俵(あひよう)通・鬼柳通・黒沢尻通・大迫通・沢内通・遠野通・大槌通・宮古通・野田通・福岡通・三戸通・五戸通・七戸通・野辺地通・田名部通・花輪通・毛馬内通である。このうち現青森県域は三戸郡三戸通・五戸通,北郡七戸通・野辺地通・田名部通である。はじめは各通に代官所が置かれ,1~2名の代官が任命されたが,享保20年には代官所が25か所に整理され,見前通と向中野通,徳田通と伝法寺通,日詰通と長岡通,八幡通と寺林通,二子通と万丁目通,安俵通と高木通,鬼柳通と黒沢尻通のように,1代官所が2通を兼ねて所管する場合も生じた。なお,遠野通は遠野南部氏の知行地でその取締に委任されたため代官の派遣がなかった。また,通は郡域ごとに定められたものではなく,通によっては2~3郡にまたがる村を管轄することがあった。代官所には,任期2年・半年交代勤務の代官2名を配し,その下に下役・物書以下各種役人をおいたが,下役以下には地方給人を任用するのが通例であった。村政は肝煎・老名・組頭が担当した。老名は肝煎の補佐役で,有力農民の中から選ばれた。このほか,大きな通には幾つかの下級の通が置かれ,10数か村を統轄する大肝煎が置かれることもあった。大肝煎は多くの場合世襲であり,名字を与えられ,相当程度の御免高を給せられた。町方には検断を置き,町政ならびに治安維持に当たらせた。検断には声望ある有力町人が任命され,名字を許され,御免高を給された。検断の下に複数の宿老が置かれ,その諮問にあたった。このほか馬肝煎・山肝煎が置かれ,それぞれ馬事・山林に関することを掌った。当藩の藩制上の特徴の1つに地方知行制が明治維新まで存続したことがあげられる。これは,仙台藩・秋田藩などとともに東北大名の共通な特徴をなすが,当藩では領内の生産力の低さとあいまって給人の苛酷な収奪,恣意的な支配に反対する百姓一揆の頻発を生じさせる一因にもなった。蔵入地と給地の比率は,天和年間の「邦内貢賦記」によると,岩手郡3万5,955石余(蔵入地2万6,416石余・給地9,538石余),紫波郡4万547石余(蔵入地3万4,894石余・給地5,652石余),稗貫郡3万9,495石余(蔵入地2万7,707石余・給地1万1,788石余),和賀郡3万9,729石余(蔵入地2万4,898石余・給地1万4,830石余),閉伊郡2万9,054石余(蔵入地1万241石余・給地1万8,813石余),二戸郡1万4,195石余(蔵入地4,665石余・給地9,530石余),三戸郡1万7,705石余(蔵入地8,749石余・給地8,955石余),北郡1万3,705石余(蔵入地1万232石余・給地3,473石余),鹿角郡1万7,287石余(蔵入地7,090石余・給地1万196石余)の合計24万7,676石余で,うち蔵入地15万4,896石余(62.5%)・給地9万2,780石余(37.5%)となっている(九戸郡の記載はない)。蔵入地の多い郡は,紫波郡の86%を筆頭に北・岩手・稗貫・和賀の諸郡となっており,北郡を除くと北上川流域の諸郡に集まっている。江戸後期においても,このような蔵入地・給地の比率は大きく変わっておらず,天保8年の改高では総高24万9,575石余のうち蔵入地は13万1,639石余(52.7%),給地は9万3,682石余(37.5%)となっている。戸口は,天和3年には家数4万8,620,寺数357,人数は30万6,032人(男16万7,869・女13万8,163),うち侍手廻5,666・侍召仕1万1,430・御歩行353・御足軽3,591・盛岡町人1万2,324・郡山町人2,167・花巻町人4,654・三戸町人1,491・所々金山1,628,宝暦5年には家数6万2,710,寺数364,人数35万8,222(男19万6,592・女16万1,630),うち侍手廻1万2,184・侍召仕1万556・徒士391・足軽6,179・盛岡町人1万6,909・花巻町人4,563・郡山町人2,438・三戸町人1,632・諸山師2,576(岩手県史)。盛岡藩政史を概括すれば,初代藩主信直(南部氏第26代)は近世大名の地位を確保し,近世南部藩の礎を築き,その長子利直も豊臣政権から徳川政権への移行期にその対応を誤らず,慶長6年岩崎の乱を鎮め,盛岡城の築城に全力を注ぎ,寛永4年伊達氏に備えるために八戸根城南部氏を遠野に移すなど政治・軍事体制を整えた。財政もまた鹿角郡白根・志和郡朴沢をはじめとする多くの金山からの莫大な産金のため,「その富三百諸侯に甲たり」(食貨志)といわれるほど裕福であったため,元和元年・寛永3年・同18年・同19年の大凶作時にも飢饉にまでは至らなかった。しかし,重直の代に独裁政治に走り,後嗣を定めず死去したため,寛文4年いったん断絶させられ,改めて新盛岡藩8万石と八戸藩2万石に分立の上復活することを許された。幸い次の重信は名君で,新田開発に努め,天和3年再び旧の10万石に昇格する一方,勤倹質素を旨とし,政治・経済上の諸制度を整えて藩政を確立したため,諸金山の産金の減少にもかかわらず財政も比較的安定した。しかし,行信の代には,元禄7・8年の大凶作が飢饉にまで発展し,多数の餓死者を出すに至った。晩年に至り,ようやく自ら率先して倹約に励んだが挽回するに至らず遂に藩債4万両を数えるに至った。以後,財政は窮乏の一途をたどった。利幹の代には藩債10万両を超えるに至ったが,利幹は冲弥一右衛門を登用して藩政改革に成功し,藩債も4万両に減らすことができた。しかし,利視は冲を罷免したため財政は再び悪化し,重税反対の百姓一揆が頻発することになる。利雄の代には,宝暦5年の大凶作が餓死者6万人を超す大飢饉にまで発展した。藩は激化する財政窮乏打開の一助として,公然と売禄制度を実施したが,いかんともすることが出来なかった。さらに利正の代にも天明3・4年の大凶作による大飢饉のため餓死・病死あわせて5万4,000人の死者を出すなど,江戸中期は惨怛たるものであった。利敬から利恭に至る6人の藩主の治世の江戸後期は,相次ぐ凶作,飢饉,百姓一揆,蝦夷地警備,幕府への手伝い普請,戊辰戦争における敗戦など。江戸期を通して最多難期であった。利敬は個性豊かな政治を行い,天明9年幕府より北郡田各部通で22か村の上地を命ぜられたがこれを拒否した。寛政4年以降,たびたび蝦夷地警備のため出兵を命ぜられ,文化14年にはロシア兵と交戦して敗退した。またこの頃から長い海岸線の防御のため多数の警備兵を出さねばならず,そのため財政は極度に窮乏した。これに対し幕府は文化5年20万石に昇格させたが,そのため財政負担がますます増加した。文政3年には南部家の家格が津軽家の下位についたことを原因とする,いわゆる相馬大作事件が起きている。利剛は,強力な藩政改革を実施したが,嘉永6年にはこの盛岡藩政を否定した最大の総百姓一揆を惹起し,その失政を天下にさらし,安政元年幕府の叱責を受けた。そして,明治維新にあたっては奥羽越列藩同盟に加わって「朝敵」となり,明治元年12月南部の地を没収され,旧仙台藩領白石へ13万石と減封の上転封させられることになる。盛岡藩の財政を支えたものは,金・米・大豆・馬・ヒバ・海産物と商人の御用金とであった。金山は江戸期を通じ126山発見されているが,特に1年間60万両の砂金を生産した紫波郡の朴沢金山,土100匁の中から40~60匁の砂金を出したといわれる鹿角郡の白根金山は日本でも最大級のものであった。江戸初期の藩財政を支えたものは,この産金収入であった。しかし,金山は一般に短命であり,江戸初期に発見された大金山の多くは数十年で掘りつくされ,寛文年間には盛時の100分の1にも達せず,その後銅山が金山にとって替わったが金山には到底及ばなかった。盛岡藩領は北国のため水稲生産力が低く,農民は畑作の雑穀,とくに大豆の生産に力をいれた。「米は無くても味噌さえあれば生きられる」というのが農民の信条であった。盛岡藩が畑の1反歩を900坪と定めたのもその点に対する顧慮があったからであろう。藩は,宝暦2年御定例御買上大豆の制を設け,二戸郡福岡通,三戸郡三戸通・五戸通,北郡七戸通の4通から買い上げて,大坂へ送った。この大豆は「為御登大豆」とも呼ばれた。この大豆は大坂市場で南部大豆の名で呼ばれ,わが国の大豆の相場を左右するまでになった。藩財政が窮乏の一途をたどっていた藩は,やがてこの制度を藩財政窮乏打開の一助とする政策に転換し,御定例大豆のほかに,別段御買上大豆・奥御国産御買入大豆・御内買入大豆等の名目で半強制的に農民から買い上げるようになった。それらの年間買上げ総石数は少なくとも2万石を超えたものと思われる。しかも,藩は次第に買上げ大豆の代金支払いを遅らすようになり,6~7年も滞ることもあったため,嘉永6年と明治3年にはその買上中止を求めた七戸通総百姓一揆の発生をみるに至った。馬は遠く平安期から糠部(ぬかのぶ)の特産であったが,その伝統は江戸期にも引き継がれ,南部馬の名で名声を博した。馬は,藩の所有する官馬と農民の所有する里馬とに区分された。官馬は,住谷野(三戸代官所管内),相内野(同前),木崎野(五戸代官所管内),又重野(同前),三崎野(野田代官所管内),北野(同前),蟻渡野(有戸野,七戸代官所管内),大間野(田名部代官所管内),奥戸野(同前)の9牧で飼育され,幕府もまた8代将軍吉宗の代には住谷野にペルシャ馬を放って,その改良を図っている。また寛永6年秋幕府の馬買役人が盛岡へ下向,その後ほとんど恒例となり元禄年間まで続いた。里馬の牝は自由に,牡は競売市場で売られ,水稲生産力の低いこの地方の農民の貴重な収入源となり,また農業再生産の原動力ともなった。しかし,泰平が続いて軍馬の需要が減ずるにつれ,産馬の藩財政上において占める地位は低下した。この馬以上に藩の財政を強く支えたのが田名部桧(ヒバ)の名で代表される南部桧(ヒバ)であった。田名部桧は永禄年間にすでに加賀・能登・越中方面に積み出されているが,慶長~元和年間頃までは地元住民の自由伐採が認められ,わずかにヒバ材を積み出す船に対して材木100石に対し砂金10~12匁5分の積石税が課せられるだけであった。しかし,東・西両航路が開け,ヒバ材の効用が増大するにつれ,寛永~正保年間頃には杣夫に対する杣札税も設けられた。その後明暦3年の江戸の大火の復興資材として莫大な量のヒバ材が江戸に送られ,そのため田名部通のヒバ山の林相は衰えた。これに対し,藩は寛文4年藩の財政収入の増大をかね,林相維持のため田名部通13か山を留山とし,元禄2年には輪伐制をしいた。寛文~元文年間頃までの1か年の出材は15万~40万石,それに対する課税額は4,000両から8,000両に及んだ。正徳6年田名部通大畑ヒバ山15か年間の伐採を条件として,藩が大坂商人天王寺屋から徴収した運上金は,5万5,000両であった。それらは藩財政に大きなプラスとなったが,15か山は禿山となった。驚いた藩は留山を38か山に増やしたが,そのため山林伐採に依存していた大畑村・佐井村などの村民を窮乏に陥れ,大量の村民の松前への流亡を見るに至った。しかし,藩はその救済策を講ずる一方,宝暦10年田名部桧山全208か山を藩有の留山とし,幕府の仕法にならって200年伐期・40か年廻りの輪伐制度を設け,毎年7か山のうち10万石を限り伐採を許可することとした。その金額は1か年2万2,392両と永770貫文に及んだが,次第にその金額は減少し,代わって岩手郡雫石通の諸山よりの収入が増加し,財政窮乏打開の有力財源となった。田名部通の桧山は嘉永6年以降全く衰微したが,その後天然更新を中心とした撫育のため,今日では田名部通を含む青森地域のヒバ林は日本三大美林の1つに数えられている。盛岡藩は海岸線が長く海産資源が豊富であったが,とくに太平洋岸の諸漁村では〆粕・魚油・塩引鮭・昆布・鮑などが,北郡の野辺地通・田名部通では干鮑・海参などの生産が盛んで,長崎会所を経て長崎俵物の名称で清国に輸出された。主要海産物には十分の一税が課せられ,長崎俵物とともに藩の重要な財源となった。盛岡藩は江戸初期の莫大な産金のため,早くから貨幣経済も行われたが,本格的に貨幣経済化するのは元禄年間以降である。この頃になると産金額も大幅に減少し,財政は窮乏化に進んだ一方,商業資本の勢力は興隆期に入っていたにもかかわらず,これを正規の税源として捕えることは出来ず,御用金賦課の形式で徴収した金を藩の財政収入に繰り入れた。享保16年以降,このような御用金賦課は頻繁に行われたが,1万両以上に達したものだけでも享保16年1万9,092両,元文元年10万両,宝暦3年7万両,文政4年1万7,350両,明治元年3万1,620両,同2万両,同3年5万両に達した。これらの御用金は,江戸藩邸の修理,幕府への手伝い普請,飢人救済,藩主襲職費,一般経費,明治維新対応費などに使われ,藩財政の維持に貢献した。幕末期には,海岸防備のためなど製砲・製鉄の技術の必要が高まったが,当藩の大島高任は安政4年洋式鉱炉による製鉄に成功した。これにより鉄の大量生産が可能になり,藩では安政6年幕府に延鉄1万5,500貫の献納を申し入れている(岩手県史)。その後,当藩では領内だけで通用する鉄銭の鋳造が認められたほか,各種鉄製品利用が勧奨されて,民間で造られた高炉も加えるとその数10座となり,鉄の量産は飛躍的に進展した(同前)。当藩領の地はいわゆるやませ常襲地帯で,春から夏にかけて霖雨・冷温に見舞われ,凶作に襲われることが多かった。当藩領での凶作は,江戸期270年間に79回を数えるほどで,3年半に1度の割であった。しかも,50%以上の減収の凶作が5年に1度,80%減以上の大凶作が18年に1度の割で発生している。特に元和元年から同5年にかけての凶作,寛永18・19年の凶作,元禄7年から同15年にかけての凶作,宝暦5年の凶作,天明3年から同4年にかけての凶作,天保3年から同10年にかけての凶作は大きく,元禄の飢饉では6万人以上,宝暦の飢饉でも同じく6万人以上の餓死者を出したと推定されている(篤焉家訓)。飢饉の影響が最も強かった北郡の人口は,元禄14年5万7,114人,正徳2年4万8,775人,宝暦5年4万2,201人,天明5年4万317人,天保11年3万9,940人と減少している(雑書・盛岡市史)。こうした低生産力地帯へ襲いかかる災害に加えて,藩の収奪は強圧で,この相乗作用は領民をいっそう苦しめた。盛岡藩は「南部の名物蓆旗」という言葉で端的に示されているように全国的にも百姓一揆が最も多発した藩であった。その発生件数を時代別にみると,江戸初期6件・中期13件・後期97件の計116件で,複数の通にわたる一揆を個々に数えると214件となる。江戸初期は財政が豊かでもあり,一揆の発生も少ない。中期には財政が下降状態に入ったのに加えて大飢饉も重なり,一揆の発生も初期よりは多くなっているが,まだ局地的一揆の段階にとどまり,惣百姓一揆は見られない。これに対し,後期になると藩の財政は窮乏の一途をたどり,藩は飛躍的発展をする商業資本と結託して農民無視の暴政を行ったため,ついに,単なる重税反対や役人排斥だけでなく,藩主の治世から離れることを目的とする嘉永6年の野田・宮古・大槌通のいわゆる三閉伊通百姓一揆を頂点とする惣百姓一揆的傾向の強い,多くの百姓一揆が発生するに至った。この嘉永6年の三閉伊通百姓一揆は,5月九戸郡野田通・閉伊都宮古通・大槌通に端を発し,11月までの間に北郡七戸通・鹿角郡花輪通・岩手郡雫石通・三戸郡五戸通・九戸郡野田通・岩手郡沼宮内通・二戸郡福岡通・北郡田名部通・稗貫郡万丁目通・稗貫郡大迫通・和賀郡安俵通・稗貫郡高木通の9郡14通に及んだ。三閉伊通一揆は参加者1万6,000人に達するわが国有数の総百姓一揆であった。三浦命助らを指導者とする三閉伊通一揆の要求は多岐にわたるが,役人増加・金上武士登用に基づく負担増加に対する反対,専売制反対,物資の移出入税徴収への反対,租税の徴収方法並びに重税への反対などを要求したものであり,最終的にこれらの要求がみたされない時は盛岡藩の支配から脱する目的で仙台藩領に逃散したものであった。ことが大きくなり幕府の咎を受けることを恐れた藩は一揆の要求を一応いれたため,一揆側の成功に終わった。これら一揆の発生件数を地域ごとにみれば,岩手郡21・紫波郡20・稗貫郡56・和賀郡43・閉伊郡31・九戸郡9・二戸郡6・三戸郡7・北郡10・鹿角郡10・不明1の計214件で(南部藩百姓一揆の研究),これによると,盛岡藩最大の農業地帯である稗貫・和賀・紫波の3郡と,海産物の中心的生産地帯である閉伊郡,藩政の中枢地帯である岩手郡が一揆発生件数が多く,農業生産力の低い二戸郡・北郡などの発生件数は少ない。このことは,一揆の発生原因が,根本的には農民の貧困・重税などにあるにしても,人間らしく生きる権利を強く要求する農民意識の強弱と,三閉伊通一揆を指導した三浦命助や弥五兵衛のような指導者の有無とが,一揆の発生に大きくかかわっていたことを示すものであろう。幕末維新の変動に際しては,当藩は奥羽越列藩同盟に加わった。しかし,明治元年10月3日藩は維新政府に降伏し,同月10日官軍は盛岡に進駐し,盛岡城を没収した。同年12月7日藩主利剛は東京に召喚されて隠居を命ぜられ,所領を収公された。翌8日利恭に家名相続が許されたが,高13万石に減封されたうえ旧仙台藩領白石に転封を命ぜられた。新領土は,陸前国柴田郡3万527石余,磐城国亘理郡2万3,587石余・宇多郡7,019石余・伊達郡5,818石余,岩代国刈田郡2万3,539石余・伊具郡3万9,442石余の合計13万石である。こうして盛岡藩は廃藩となったのである。旧盛岡藩領は維新政府の直轄地となり,弘前藩や信濃松本藩・松代藩,上野沼田藩,下野黒羽藩などの諸藩の取締地として預けられた。鎌倉期以来の地から転封され,また減封に伴って3,800人余の家臣に暇が出されるなど大きな変化を余儀なくされた盛岡藩と領民たちは,白石転封後,盛岡への復帰を繰り返し陳情し,明治2年7月,70万両の献金を条件に盛岡への復帰が認められることになった。ただし,13万石の領知高に変更はなかった。領域は,岩手郡3万5,570石・紫波郡4万1,560石・稗貫郡4万2,780石・和賀郡1万90石の計13万石で,村数は162か村(藩では242か村と把握していた)である。これがいわば新盛岡藩の成立である。同年10月,紫波郡の管轄地のなかに八戸藩領分約1,500石が含まれていることが判明し,代わりに江刺郡内3か村が盛岡藩領となった。藩庁は盛岡城内に置かれ,出張所としての部会所が盛岡・沼宮内・日詰・花巻・沢内に置かれた。明治3年7月10日,翌4年7月の廃藩置県を待たずして廃藩となり,盛岡県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7013200 |