胆沢県
【いさわけん】

(近代)明治2年2月30日~同4年11月2日の県名。伊沢県とも書いた。岩手県の前身の1つ。明治元年12月23日仙台藩領は維新政府の直轄地となり,諸藩による取締りが行われたが,胆沢郡などの地は沼田藩主土岐隼人正頼知に取締が命ぜられ,同2年2月30日には沼田藩にかわって前橋藩が取締の任についた。同年4月3日前橋藩は赴任すべき諸役人を発令し,権知県事の久永真里をはじめとする一行が8月5日胆沢郡前沢村の三沢信濃の居館跡を役所として着任し,同月8日に事務引き継ぎの指令をうけたという。胆沢郡に役所を置いたため,この沼田藩・前橋藩取締の地はのち次第に伊沢県と称するようになっていく。ただし,公式に伊沢県と称するようになった時期が不詳のため,本辞典の地名編の各項では「沼田藩取締」「前橋藩取締」と記述した。管轄は,磐井郡の一部21か村と胆沢郡37か村,高は磐井郡が安藤氏(旧磐城平藩主)領・一関藩領を除く2万570石余,胆沢郡7万7,031石余の計9万7,601石余となった。磐井郡内においては,一関藩領との換地などもあって,同年3月14日に東山地方28・西磐井地方19の計47か村が管内となったが,同年東山地方の村々は一時安藤氏領となり,同年8月3日に再び前橋藩取締地に入ったという。同年8月12日改めて胆沢県置県が発令され,一関藩領を除く磐井郡,胆沢郡一円,宇都宮藩取締地であった陸前国栗原郡西部の3郡約100か村を管轄するようになった。同4年調べでは高は19万124石余に及ぶ。権知事には同3年5月19日まで旧大洲藩士の武田敬孝が任命されている。明治2年9月になると水沢へ県役所が移転し,同月25日事務引き継ぎを済ませて翌26日に開庁した。県庁以外には,千厩(せんまや)分県役所・三迫(さんのはさま)分県役所が明治2年10月から置かれ,同3年にはこれを廃止して金成分県役所が置かれた。また同4年からは前沢・水沢・千厩・摺沢・金成・川口の各出庁が配置されることになった。郷村組織については江戸期の組織を踏襲していたが,明治2年11月郡代・代官の廃止,翌12月大肝入制の廃止が行われている。県庁内は開庁当時,民政・会計・刑法の3局と営繕・書記・諸藩応接の係が置かれたが,同3年戸籍・勧業・租税・営繕・駅逓・開墾・聴訟・社寺・徒刑・出納通商・馬事・山林の各掛りと書記とに改編し,同年11月には三陸会議の決定に基づき審理・租税・出納・営繕の4部制を採用している。管内の戸口は,明治3年2万1,750・13万7,856,同4年2万1,755・13万8,167。県政の出発にあたり,明治2年凶作にみまわれ,山野での蕨根掘取りの許可,郡内米穀の移出禁止の方策がとられた。一方,水沢・金ケ崎・前沢の3か所では米穀の買入れを行い,同年の年貢米も10分の1は籾のままで納入することとした。管内の倉庫は,栗原郡を除くと胆沢郡の西根・安土呂井・六日入,磐井郡の平泉・薄衣・黄海(きのみ)に置かれていた。県は,同3年10月には納入年貢米検査の枡・秤量の一斉検査を行うに至っている。通商政策をみると,明治2年8月の置県の布達に伴い,県内物産の移出については会計官出張所の所管であったものが県の所管となり,同3年に免許通帳制の実施,物産郷宿の指定,諸商売への鑑札下附と役銭徴収,産馬制度の改正,諸販売品の仕入先・元値・運賃・小売価格の調査などを行っている。また県役人の管内通行時の運賃支払いを規定した翌年の明治3年6月15日に馬継立が全廃されている。文教政策では,江戸期の留守氏の学館として天保12年に竣工した立生館が郷学校となった。明治2年から神仏分離が進んだが,県では管内神道事務取扱いを上胆沢塩釜神社神主の笠神但馬正に命じ,同4年には村社・郷社が定められた。明治3年新政に反対する一揆が東山地方10か村の農民によって起こされ,盛岡県・一関藩から出兵が行われた。同年末にはこの東山地方に天然痘が流行し,大原・上奥玉・松川の3駅に種痘施行仮出張所が設置されている。同4年一関県の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7013573 |




