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仙台藩
【せんだいはん】


旧国名:陸奥

(近世)江戸期の藩名。陸奥国宮城郡仙台に居を構え,陸奥国中部諸郡を領有した外様大藩。鎌倉期以来の豪族伊達氏は,政宗の時に本拠地出羽国米沢を中心に東北随一の大名として成長していたが,天正18年政宗は豊臣秀吉に帰順し,会津・岩瀬・安積の諸郡を没収されたものの,他の旧領は安堵された。翌19年,葛西大崎一揆が平定されると,長井・伊達・信夫・田村・安達郡の本領が没収され,葛西・大崎両氏の旧領12郡が新給され,安堵されていた奥州9郡と合わせて58万石余を領有することになった。これが江戸期の仙台藩のはじまりである。政宗は同年米沢から旧大崎領内の玉造郡岩手沢城に移り,岩手沢を岩出山と改めるが,慶長5年仙台築城を開始し,翌6年政宗はまだ工事中の仙台城に移った。慶長5年の関ケ原の戦では政宗は徳川氏に属し,同年その功により刈田郡約2万石を加増され,同6年には近江国蒲生郡内に5,000石,同11年常陸国信太・筑波・河内の3郡内に1万石,さらに寛永11年近江国蒲生・野洲両郡内で5,000石を与えられ,こうして表高62万石の広大な所領が確定した。仙台藩主としての伊達氏は,政宗―忠宗―綱宗―綱村―吉村―宗村―重村―斉村―周宗―斉宗―斉義―斉邦―慶邦―宗基―宗敦と15代にわたって在封し,明治維新に至る。正徳2年の領知目録によると,所領は陸奥国のうち桃生(ものう)郡一円65か村・1万9,748石,牡鹿郡一円60か村・5,420石,登米(とめ)郡24か村・1万8,271石,本吉郡一円33か村・1万5,163石,賀美郡一円38か村・2万4,779石,玉造郡一円21か村・1万7,723石,栗原郡一円92か村・8万1,354石,志太郡一円64か村・2万9,256石,遠田郡一円58か村・3万1,040石,刈田郡一円33か村・1万9,991石,柴田郡一円35か村・1万9,885石,伊具(いぐ)郡一円36か村・2万6,534石,亘理(わたり)郡一円26か村・1万5,867石,名取郡一円61か村・4万4,514石,宮城郡一円78か村・4万7,578石,黒川郡一円49か村・3万1,311石(以上,現宮城県),磐井郡一円86か村・5万9,317石,気仙郡一円24か村・1万2,900石,胆沢(いさわ)郡一円37か村・4万7,582石,江刺郡一円41か村・2万6,627石(以上,現岩手県),宇多郡内9か村・5,120石(現福島県),常陸国のうち信太郡内13か村・5,041石,筑波郡内3か村・3,506石,河内郡内1か村・1,238石,下総国のうち豊田郡内1か村・270石,近江国のうち蒲生郡内18か村・8,842石,野州郡内2か村・1,157石であった。奥州では21郡980か村を領有し,岩手県域では磐井・気仙・胆沢・江刺の4郡を有していた。ただし,上記では磐井・栗原両郡はそれぞれ一円となっているが,天和2年には田村建顕が磐井郡のうち35か村・2万2,698石余,栗原郡2か村・939石余を分与されて一関藩を立藩している。一関藩は独立した大名だが,仙台藩からは一門格として扱われており,仙台藩領とみなしているためであろう。62万石の表高は,加賀102万石,薩摩73万石に次ぐ第3位の大藩ということになるが,内高は100万石であったといわれる。また,北の盛岡藩とは文禄~元和年間に境界相論が起きており,仙台藩では和賀川まで,盛岡藩では伊沢川までをそれぞれ自領と主張していた。伊達氏家臣団には一門・一家・一族などの家格の序列があり,近世初期には16家の上級家臣がいた(仙台武鑑)。また,要害拝領の家臣は伊達将監以下4家,在所拝領は一関の田村右京大夫以下7家,所拝領は三沢信濃以下5家がある。万石以上の家臣は田村氏以下9家にのぼる。文化・文政年間頃の仙台府諸士版籍によれば,家臣団は一門11人・一家17人・準一家8人・一族22人・宿老3人・着座33人をはじめ2,326人,これにこれらの陪臣1万6,964人を加えて合計1万9,290人に達していた。当藩では明治維新にいたるまで地方知行制を採用し続け,蔵米取りは下士に限られていた。蔵入地と給地の比率は,延宝4年には蔵入地が31%を占めていたが,なかには気仙・磐井両郡のように大部分が蔵入地となっている郡もあり,嘉永5年には気仙郡で98%,磐井郡西磐井では96%が蔵入地となっていた。農民支配については,知行地においては給人の直接農民支配が強かった。藩制上の地方支配機構としては,郡奉行・代官・大肝入・肝入が置かれた。郡奉行は,江戸前期~中期には藩領内を南方・北方・東方・中奥・奥と5区分してそれぞれ1人ずつ置かれ,後期には南方・北方・中奥・奥の4人となった。このうち岩手県域の江刺・気仙・胆沢・磐井の4郡は宮城県域の本吉郡北方とともに奥郡奉行の管下に置かれた。この4郡のうち磐井・胆沢両郡内にはさらに行政上の小区画が設けられ,磐井郡は東山と西磐井,胆沢郡は上伊沢と下伊沢に分けられていた。嘉永5年の代官および代官所所在地は,磐井郡東山に2人(千厩(せんまや)町・大原町)のほかは1名ずつで,同郡西磐井は山目町,胆沢郡上伊沢は水沢町,同郡下伊沢は前沢町,江刺郡は岩谷堂町,気仙郡は今泉町にあり,これらの区画ごとに大肝入が置かれていた。土地制度として当藩に特徴的なのは,高を貫文で表示する貫文制が存続したことで,寛永17~19年の惣検地を境にして1貫文を10石に換算し,貫文制を擬制化して事実上石高制に変化していく。この1貫文の面積は,およそ上田5反9畝・中田7反7畝・下田9反1畝・下々田1町2反5畝にあたるという。農村人口は寛保2年の55万9,204人,人頭数は安永4年の8万6,999人をそれぞれピークとする。この江戸中期には地誌の編纂が大規模に行われ,明和8年には田辺希文によって「封内風土記」が完成し,宝暦13年には「宝暦風土記」も作成された。続いて安永年間に「風土記拾遺」の計画も立てられたが,その集成は完成せずに終わった。しかし,村々には藩によって定められた調査細目に沿った安永4年書上げの村書出・寺院書出・代数有之御百姓書出など風土記の稿本が多数残されており,これらによって当時の村々の状況をかなり詳しく知ることができる。これらは「安永風土記」と通称され,「宮城県史」に数多く収載されている。当藩の藩財政を特徴づけるものの1つは買米制である。これは,寛永年間頃からの江戸廻米に発するもので,年貢米以外の百姓作徳米の藩による独占的買上げをいう。買米制は享保年間には確立し,領内から買い集められた米は石巻から海上を江戸深川の蔵屋敷まで運ばれて江戸市場で売り払われ,藩財政に多大な利益をもたらすものであったが,反面米相場の変動に極めて大きく影響されるという性格をもたされていた。同じく享保年間には幕府から寛永通宝の鋳銭許可をうけており,これも藩財政の好転に寄与した。こうして中興の英主と称された藩主吉村の享保改革は藩財政の建直しに成功した。しかし,これ以後は凶作・飢饉などによって藩財政は窮乏の一途をたどり,明和7年には借金60万8,600両,借米2万4,200石にものぼった。これに追討ちをかけるように,天明年間の飢饉が農村を疲弊させ,藩財政にも大きな打撃を与えることになった。そして,天明3年9月19日には城下で騒動が起き,藩の米穀流通政策に関わっていた金上侍の安部清右衛門・二日町大黒屋清七などが一揆勢数千人に襲われた。また,寛政9年には,藩の収奪策,とりわけ不当な課税や借上げ,買米制,役人の不正などに反対する一揆が領内北半分において展開する。買米制は,一時的に藩財政を支える時もあったものの,江戸での米価変動という不安要因に加えて,領内農民の反撃にも直面したわけである。文化年間以降には,対ロシアなど北方警備を敷くことに迫られ,幕末にかけては給人らの動員体制を組織し,クナシリ・エトロフ両島を持場として警備に動員されていく。領内では,天保年間の飢饉により農村の疲弊はさらに進み,春の田鋤の時期まで食糧もない「下民」の者ばかりとなっていったという。そして,慶応2年には栗原郡三迫(さんのはさま)地方で,同4年には磐井郡で農民が蜂起し,幕末の世情不安の状況が広がっていく。この維新変革の政情に際して,藩主慶邦は奥羽列藩同盟の盟主として対処していく道を選んだ。しかし,明治元年9月11日仙台藩は官軍に降伏,同月24日には城地を返上し,仙台藩はいったんは消滅することになる。10月6日には鎮撫総督四条隆謌が仙台に入城し,官軍の占領下に入ったのである。同年12月7日,仙台藩は表高18万石(内高28万石)に大幅に削減されて復活し,宗基に家名相続が許された。新仙台藩の領域は名取郡一円61か村・宮城郡一円78か村・黒川郡一円49か村・玉造郡一円31か村と志田郡内43か村である。残りの表高32万石のうち,刈田・柴田・伊具・亘理・宇多・伊達の6郡13万石は盛岡藩領を没収された南部利恭に与えられ,いわゆる白石南部藩が同2年7月南部氏が盛岡に復帰するまでの短期間存置された。他の旧仙台藩領は,維新政府の直轄地となり,おおよそ登米・遠田・志田(新仙台藩領を除く)3郡が常陸土浦藩,栗原郡が下野宇都宮藩,本吉・桃生・牡鹿3郡が上野高崎藩,現岩手県域の磐井・胆沢2郡は沼田藩を経て前橋藩,磐井郡のうち東磐井地方3万4,050石余は安藤氏(旧磐城平藩主)領から前橋藩,江刺・気仙2郡は信濃松本藩のそれぞれに預けられ,その取締地となった。仙台藩は明治4年7月14日の廃藩置県により仙台県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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