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八幡町?
【はちまんちょう】


旧国名:陸奥

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は盛岡城下の一町。町人地。城東地区に属し,中津川左岸の東に位置する。盛岡藩が幕府に届け出た盛岡二十三町の1つ。天明8年の家数140・人数1,294(邦内郷村志)。盛岡城下の総鎮守八幡宮の参道に当たる門前町で,直交する片側だけの町並を片原町といった。同町は下厨川村の夕顔瀬片原と区別するため八幡片原町ともいった。また,町を二分して八幡町と片原町に区分することもある。八幡宮は寛文11年に整地工事が始められ,延宝9年社殿が完成している。藩主南部行信により,その創建時に社前の水田を埋め立てて参道がつくられ,八幡町と命名されて町家が建てられた。この当町の町づくりは年貢米500石がつぶれるとする勘定奉行の反対を抑えて進められたものであったという(盛岡砂子)。町の規模は八幡町・片原町ともに3町程,市日は延宝8年に8月1・3・6・8・11・13・16日とされたが,翌9年には8月1~16日まで毎日市を立てるよう命じられ,さらにこの間他町で市を立てることを禁じた(同前)。しかし,のちには8月1日~16日の間の隔日が市日になった(同前)。地内には相撲場があり,これを上覧場といって御桟敷が設けられ,八幡宮坂下の南に相撲神があって力神の宮と呼ばれていた(同前)。また,地内坂の下北裏には歌舞伎舞台があって,天和2年4月今村松之丞という者が座元太夫で城下で初めて狂言芝居の興行が行われた(同前)。浄土宗自然山帰命寺が地内にある(同前)。当町は宝永年間頃までには茶屋など飲食店を中心とした歓楽街となっていた。また,当町では隠し遊女屋も営まれ,色街としての性格が濃く,藩の政策によって曲折を経たが,明治期以後は花柳街として繁盛した。明治8年の戸数は八幡町南側130・同町北側154(盛岡市史)。明治4年八幡町・八幡片原が各々志家村の字名となるが,同22年八幡町に八幡片原を編入して盛岡市志家字八幡町となり,昭和20年からは盛岡市の町名となる。花柳街としては,大正10年頃までが全盛時代で,大正のはじめ頃には約18軒の貸座敷があり,幡街と呼ばれた(もりおか物語)。幡街芸者は芸事の修練でも本町の本街芸者と互いに競い合った。昭和38年一部が中ノ橋通2丁目となり,同時に松尾前の一部を編入して地内を再編成。同45年八幡・茶畑の各一部を編入。同年の世帯数525・人口1,673(男728・女945)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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