日影門外小路
【ひかげもんそとこうじ】

旧国名:陸奥
(近世~近代)江戸期~昭和39年の町名。江戸期は盛岡城下の武家屋敷地で,日影御門外小路・三戸小路と称した。古くは三戸町という町人地であったが,その三戸町であった当地の町人を田町に移転させて同町を三戸町と改称したため,当地は文化10年日影御門外小路と改められた。城西地区に属し,北上川左岸の東に位置する。地名の由来は,旧三戸城下の町人が移住した地であったためはじめ三戸町と称したが,町人の移転後の小路が内丸から西に通ずる道脇に設置された日影御門の外側,濠に沿った地であったことによる。三戸町は盛岡藩が幕府に届け出た盛岡二十三町の1つ。天明8年の三戸町の家数122・人数673(邦内郷村志)。まだ三戸町と称していた明和8年に藩は当地に文武練習場を八幡町の坂上から移し,御稽古所と称した。御稽古所は天保11年藩校明義堂となり,慶応元年作人館と改称して,廃藩後も明治6年まで存続した。同8年の戸数37(盛岡市史)。明治4年仁王村の字名,同22年盛岡市仁王の字名,昭和20年からは盛岡市の町名となる。なお,「盛岡市史」によれば明治期仁王の字として見えない時期がある。明治25年盛岡女学校がキリスト教関係者により設立され,同44年東北高等女学校と改称し,昭和23年盛岡白百合学園高校となった。同39年本町通2丁目・中央通1~2丁目となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7015851 |




