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水沢県
【みずさわけん】


(近代)明治4年12月13日~同8年11月22日の県名。岩手県の前身の1つ。一関県が改称して成立。県名は,田村氏邸の旧一関県庁が手狭であったために水沢に開庁する予定であったことに由来するという。管轄は,陸中国の胆沢(いさわ)・江刺・磐井,陸前国の本吉・登米・栗原・玉造・気仙の計8郡356か村,草高は,43万9,535石にのぼる。戸口は,置県当初6万741・37万2,562,明治5年7月5万9,790・38万4,369(男19万8,188・女18万6,181),同6年6万2,422・37万6,079,同7年6万2,328・37万9,170。士族は,明治5年の戸数は磐井郡632・胆沢郡1・江刺郡1,同6年685戸・3,304人,同7年688。一関県参事であった増田繁幸が参事として赴任し,当初は参事を補佐する権参事・典事,のちに権令・権参事・七等出仕らで県首脳部を構成した。県庁は,はじめ旧一関県庁を仮庁舎とし,登米郡寺池町(宮城県)と胆沢郡塩釜村の水沢町に出張所を設けた。明治5年6月5日に寺池町の元登米県庁舎に移転命令が出て6月27日開庁となる。この間,一関庁舎は出張所となり,玉造郡岩手山・気仙郡今泉・江刺郡岩谷堂には取次所が置かれていた。同年管内の8郡は20大区56小区に分けられ,同7年11大区56小区となり,取次所が11か所に設置される。明治6年度の歳入は37万6,114円余うち租税米31万1,325円余・大豆3万7,261円余・金339円余・塩492円余・諸掛物(口金)約1万600円,その外は雑税収入,同年度の歳出内訳は官員月給2万1,633円余・常民備金1万4,217円余・旅費1万1,358円余・捕亡入費2,892円余・堤防営繕7,048円余・民費割賦6万2,597円余などでほかに家禄米として華族1人分1万1,121石・士族686人分6,068石余もある。同7年の田畑は田3万515町余・畑3万7,910町余の計6万8,507町余,ほかに大縄反別353町余・神社261町・官庁地4町余・官用地7町余とある。同年の農業生産高は米26万3,500石余・大麦16万9,400石余・大豆3万9,500石弱・小麦1万3,200石余・粟1万1,500石余などである。また各種の農産加工品や海産物もあるが,畜産では同年1月頃には馬5万7,017・牛500と見える。明治5年7月頃の寺社は,気仙郡46か寺・42社,磐井郡84か寺・67社,胆沢郡48か寺・41社,江刺郡54か寺・46社。この頃の県内総寺院数は448か寺という。同7年の神社は国幣社1・県社1・郷社19・村社53・諸社1,011の計1,085,寺院は天台宗60・新義真言宗60・臨済宗26・曹洞宗308・浄土宗17・時宗6・浄土真宗18・日蓮宗9・黄檗宗1の計505。一関県学校(教生館の後身)・胆沢県学校(立生館の後身)は明治5年まで続き,また私学の義聚学校が設置されたが,同年学制の発布により,当県は第8大学区(同6年第7大学区)となり,県内は3中学区・622小学区に分けられた。同7年第1中学区の小学数・教員数は75・75,第2中学区148・148,第3中学区80・80の計303校・303人となる。同年には教員養成のための伝習学校で,卒業生に教員免許状が発行されるようになり,以後免許状のない者は教員になれなくなった。翌8年伝習学校を旧一関城下に移転させ,同9年3月磐井師範学校となった。明治8年7月10日頃の大洪水により県の事務を磐井郡一関に移し,同年11月22日磐井県と改称した。なお大洪水による堤防決壊で,復旧工事にあたった人足は延べ1万3,115人に及んだという。




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「角川日本地名大辞典」
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