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国分
【こくぶ】


旧国名:陸奥

(中世)戦国期から見える広域地名。宮城郡の西半地域。戦国期に国分氏が支配した地域を指して称したもの。「伊達正統世次考」「伊達治家記録」や,この頃の文書に頻出する。「国分文書」天文11年7月11日付の国分宗政宿坊証文に「国分郡」とあるのはこの意味の国分領に当たる。近世国分荘と記すこともある(封内風土記など)のはこの国分郡のいいかえである。地名としての国分が見えてくるのは天文年間の頃からである。「伊達正統世次考」天文6年12月26日付の伊達稙宗書状に,「国分の通路截断,急難に至る」とあり,「留守文書」天文11年と思われる11月11日付の留守景宗宛白石実綱書状に「国分へ御動(はたら)き,松森に押詰められ候由承り候」とあるのが早い用例である。「伊達治家記録」永禄8年5月12日条にも支倉久清に与えた書状の中で伊達輝宗は「佐藤土佐円森(丸森)より奥口へ差越さる。それより国分まで路次中相違なく送りを添へて差越すべし」といっている。国分氏は千葉常胤の五男胤通が下総国葛飾郡国分に住んでその字を名乗ったといわれ,文治の奥州合戦の賞として宮城郡国分荘を与えられ,はじめ郷六(仙台市)にいて,のちに千代城に移ったという(国分系図)が,国分氏の存在を確かめることのできるのは,国分淡路守が文和2年8月29日に,宮城郡南目(みなみのめ)村を高部屋四郎右衛門尉とともに石川兼光に沙汰付けていることのわかる「白川文書」が最初である。「余目記録」によれば国分氏は南北朝期観応2年の岩切合戦で勝ち大将吉良方に合力し,七北田(ななきた)川氾濫原をはさんで対抗関係にあった留守氏の本領をもことごとく合併し,一挙に勢力をのばした。そしてやがて勢力を回復した留守氏と深刻な対立関係に入る。「余目記録」には「国分は,小山より長沼相分かれ,なかぬまの親類」とあって,秀郷流藤原氏の小山・長沼氏らと同族であるとしている。鎌倉期に平姓国分氏が没落し,代わって藤原姓国分氏が跡を継いだと考えられている(宮城県史1)が,この国分氏が本来平姓だったかどうかは不明である。戦国期には伊達晴宗の息盛重が入嗣して,伊達系国分氏になる。国分氏の一家衆には郷六・森田・八乙目・北目・南目・朴沢・鶴谷・松森・秋保・粟野・古内・坂本・白石などの各氏があったとされており(秋田藩家蔵文書・国分文書/仙台市史8),このうち,粟野氏は沖野城・北目城・茂ケ崎城(名取郡・現仙台市)を支配し,北目氏が南目城,郷六氏が霞目古城,その一族森田氏が郷六城を,さらに国分氏の宿老といわれた堀江氏が小泉村古城(ふるじろ),国分氏が同じく小泉村古城と松森古城を支配し,他の諸氏はいずれも字にちなんだ同名の城を支配していたといわれている(古城書上/宮城県史32)。「伊達正統世次考」天文6年12月26日付の牧野安芸・石田山城宛伊達稙宗書状には,伊達軍が千代城に入城,国分に使者をやって停戦を求めた旨の記事があり,千代城もその国分本城の1つであった。戦国末期に国分氏は内紛を生じ,入嗣した盛重は伊達政宗に米沢へ召し返され,その後,常陸へ逃亡してその家は絶えた。政宗の仙台城下が,国分氏の旧領域を継承したものであったことがわかる。江戸期になっても国分の広域地名は残されており,国分山根通(七北田丘陵周辺の地域),国分沖通などの区分が,大肝煎支配地域の分け方として機能していた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7017648