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広瀬川
【ひろせがわ】


仙台市を流れる川名。山形県境の関山峠南斜面の水を集めて東流し,大倉川・横川・新川(につかわ)・青下(あおした)川・芋沢川などを合わせ,作並温泉・熊ケ根・愛子(あやし)の地を経て仙台市放山(はなれやま)に達し,市街地を北から西へさらに南へその周縁部を流れ,仙台市日辺(につぺ)付近で名取川に合流する。全長約40km。近世には仙台川・長町川などとも呼ばれ,また「安永風土記」の各村の記事には,それぞれ通過地点をとって作並川・愛子川などとも記されている。中流の熊ケ根付近から河岸段丘が形成され,仙台市も広瀬川の形成した河岸段丘の上に建設されている。市内では牛越橋から下流に段丘の形成が顕著で,下町・中町・上町・台原(だいのはら)・青葉山などの段丘が見られる。仙台城はこれらの段丘面を利用して構築された城で,本丸が青葉山段丘,二の丸が上町段丘,三の丸が中町段丘につくられており,さらに広瀬川の流れを天然の外濠としていた。このため,青葉山と広瀬川は仙台城および城下町仙台の象徴ともいうべき山と川となった。平泉藤原時代からこの川の名が知られ,「吾妻鏡」文治5年8月7日条には文治5年の奥州合戦に平泉側は,「名取・広瀬両河に大縄を引いて柵(せ)く」とある。また南北朝期には正平6年(観応2年)広瀬川をはさんで,南北両軍の明暗を分ける大事な戦いが起こっている。観応の擾乱が奥州にも波及して同じ足利方の中で吉良貞家と畠山高国の両探題の争いとなった時,この内輪もめに乗じて,南朝勢中院守親(北畠顕信の子)らの軍勢が国府回復を目指して動き出し,この年11月22日,名取郡広瀬川に抵抗線を張った吉良方に迫って大勝,一時国府を奪回している(結城古文書写・相馬文書・白川文書など)。広瀬川の呼び名がすでに一般化していたことがわかる。江戸期にはこの川を外濠のようにして仙台城が築かれて,城下の要(かなめ)をなす川となった。しかし,しばしば洪水を引き起こし,仙台各所の橋を流失させる水害を繰り返した。昭和25年8月4日には明治以降最大の被害をもたらした大洪水があり,死者10名に達した。これが契機となって以後護岸工事の施行もあり,水害は発生していない。明治31年から仙台市は下水道工事を実施したが,最初のそれは広瀬川に放流されていた。このためどぶ川と化した。昭和37年全国にさきがけて「健康都市」を宣言した仙台市は,これと並行して昭和32年以降,下水道の抜本的改造を図り,南蒲生(みなみがもう)下水処理場を建設,処理した後に太平洋に放流することになり,広瀬川の下水流入はなくなった。同49年9月仙台市は「広瀬川の清流を守る条例」を制定し,アユの生息できる水質を維持することおよび両岸約50mを環境保全区域に指定するなどの措置をとった。現在では広瀬川の清流は次第によみがえりつつあり,アユ釣りはもとより流れに棲むカジカガエルの声も聞かれるまでになった。河川敷の各所には河川公園や遊歩道がつくられ,広瀬川全体を自然にもどす運動が功を奏しつつある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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