船岡館
【ふなおかたて】

鎌倉期から見える館名。四保(しほ)館・芝田館(封内名跡志),柴田城(安永風土記),また単に館山(たてやま)ともいう。柴田郡のうち。柴田町船岡西方の標高136mの四保山頂上から東麓に三段築に構築されている。地勢峻険,頂上からは西に蔵王(ざおう)連峰,東方には阿武隈(あぶくま)の大河の先に太平洋まで眺望される。眼下には西に大河原盆地,東に三名生(みよう)の低地,これを潤す白石(しろいし)川と6つの沼が内濠のように館を囲繞する。景勝と地の利を占めた堡塁である。「吾妻鏡」によれば鎌倉初期の正治2年8月21日,源頼家が芝田次郎を召したが,病と称して出府しないので宮城四郎家業(伊沢家景の弟)を追討に派遣し,芝田館を攻めさせたとある。さらに同年10月13日条には「宮城四郎奥州より帰参 去月十四日合戦を遂ぐ 晩に及び芝田館を攻め落し訖(おわ)んぬ」とある。その芝田館はこの船岡館に当たる。「北条九代記」はこの出来事について,芝田は前年鎌倉を追放,次いで討伐にあった梶原景時与党として攻め滅ぼされたとしている。「天文段銭古帳」に「二十五貫文 しのほ」とあるのは,この芝田館下の村に当たると思われ,館四保館と呼ばれるようになっていたと考えられる。元亀・天正の頃は四保但馬定朝が拠り,慶長年間は屋代勘解由が二の丸を構築して居館とした(古城書上)という。元和元年~寛文11年の間は原田甲斐が来住したが家中屋敷に住み築館はなかった(安永風土記)。原田甲斐はかの伊達騒動の立役者の1人で,事件後,家は改易となった。天和元年柴田但馬宗意(むねおき)が登米(とめ)郡米谷(まいや)(現東和町)より所替りとなって来住し,元禄7年に三の丸を構築してこれに居住,以後代々これを継承した(安永風土記)。柴田氏は家格一家。知行高5,150石・侍屋敷108・寺屋敷1・足軽屋敷51。本丸は方30間,二の丸も方30間・周り70間,三の丸は要害につき書上げせず(封内名跡志)とあるが,高さ50m・東西70m・南北60mほどの広さである(仙台古城館)。大手門は三の丸南側にある。現在は地形のみで建築物は残っていないが,三の丸跡には大正の頃から桜が植えられ船岡公園として造成された。伊達騒動に取材した「樅(もみ)ノ木は残った」の発表以来,観光ブームに乗って一帯の整備が施され,本丸跡には高さ24mの平和観音像が建ち,二の丸跡には原田甲斐の供養碑が建立されるなど,史跡と風光の名所となっている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7019053 |