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秋田城
【あきたじょう】


旧国名:出羽

(古代)秋田市寺内高清水岡に営まれた。出羽国北部経営の中心城柵。陸奥国の多賀城と並び称される古代東北の要鎮。この名は宝亀11年国史に初出(続日本紀)するが,「正倉院文書」(大日古20)の中にすでに天平宝字4年3月に「阿支太城」(丸部足人解)と呼ばれていたから,雄勝(おがち)城と同じく天平宝字3年頃に城制がとられたものであろう。前身は天平5年に庄内出羽郡からこの岡に北進した秋田出羽柵である。国名を付したことからして出羽国庁もこの柵に進出したものとみられるが,政情不安定のため,宝亀6年後退したらしい。宝亀11年には秋田城そのものの後退さえ議せられたが,結局は時の鎮狄将軍安倍家麻呂の判断などもあって,出羽介を城司として城の機能を存続することになった。後世まで秋田城介(あきたじようのすけ)と呼ばれるのがこの官職である。延暦23年秋田城制から通常行政の郡制に地域の経営は移されたが,軍事上の立場を中心とした城の機能は長く残った。天長7年秋田城地方に大地震があった際の城司もやはり出羽介であった。元慶2年には城司の苛政から城下俘囚の反乱があったが,時の城司が出羽介か否かは不明である。天慶2年にも同様の反乱があった。前九年の役の前哨戦鬼功部(おにこうべ)合戦には,出羽の秋田城介が軍を率いて陸奥国守軍を援けた。平安後期には「城氏(じよううじ)」を称する平氏が城介を主として勤めたが,中世には鎌倉幕府の重鎮安達氏や北条氏が秋田城介となり,織田信長の子信忠が秋田城介に任ぜられ武門の栄誉と称えられた。戦国末期に安東実季らが秋田城介家を名乗った。城の古代的機能は11世紀まで果たされたことが考古学的に指摘されているが,中世まで続く城介の存在からみて,秋田城の持つ軍事上・行政上の意味は日本史全体にかかわって長期にわたり重視されていたことがわかる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7019619