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摩当村
【まとうむら】


旧国名:出羽

(近世)江戸期~明治9年の村名。出羽国秋田郡北比内(きたひない)のうち。秋田藩領。麻当村・磨当村とも書く。中世には松尾村。「俚人の口語まとをと言ひしを筆のまにまに字にうつし」たのを正式村名にしたという(真澄遊覧記)。鷹巣盆地の東南,摩当川・小摩当川・田沢川が米代川(よねしろ)川に注ぐ山麓部に中心集落が位置する。南方の摩当山に至る広大な山林を含む。山林が「間藤沢」の名称で藩の御留山に指定されたのは,元和~寛永年間能代奉行後藤七右衛門の順山の頃で,赤檜もあったが,薪は村民の採取を認めたという(能代木山方旧記)。村では製炭を特産としたが,残された近隣村との入会山にも順次直山・札山の指定があり,藩からの制約が強化された。一方,耕地では大館給人近藤氏の地方知行下に開発が進められ,米代川対岸部の低湿地開拓にも着手。この地域の摩当袋の開墾による当村枝郷掃部羽立(かもんはだつ)村は17世紀後半に太田新田村として独立する。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに本田当高187石余の村として図示するが,「享保黒印高帳」では村高481石余・当高338石余(うち本田144・本田並42・新田152),「寛政村附帳」で当高379石余(すべて蔵分)と認定。枝郷に田沢・大沢・李代(すももだい)(李岱)・小摩当の4村を擁し,小猿部(おさるべ)7か村中の寄郷として親郷七日市(なぬかいち)村の差配を受ける。戸数は「享保郡邑記」で78軒(うち枝郷分38)。「秋田風土記」「郷村史略」でも78軒・馬192頭とある。村肝煎は小坂彦三郎家の世襲という(栄郷土誌)。村鎮守八幡社のほか,神明社をまつる。天保7年渡部斧松を招聘し太田新堰を竣工。「天保郷帳」は338石余。明治8年の村勢は368石余・家数97軒。同9年太田新田村と合併,栄(さかえ)村成立。現在は小字および集落名として残る。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7023006