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上山藩
【かみのやまはん】


旧国名:出羽

(近世)江戸期の藩名。譜代,ただし一時期外様・小藩。居城は上山(月岡)。元和8年山形城主最上氏の改易により,上山には譜代大名能見松平重忠4万石が封ぜられたが,寛永3年外様の蒲生忠知,翌年山形藩主鳥居氏の城代管理を経て寛永5年,外様の土岐頼行が入部し,以後元禄5年まで2代65年間上山藩を統治した。その後一時幕府領となったあと外様の金森頼(3万8,764石)が入部したが,元禄10年,譜代の藤井松平信通(のぶみち)が備中庭瀬(現岡山県吉備郡)から上山3万石に入部して幕末まで定着した。上山藩領は上山城付領としての上郷約1万7,000石・37か村が,城廻・中川郷・生居郷・牧野郷・本庄郷・西郷にまたがり,残りの1万3,000石余は,中・下郷と称して現在の山形・寒河江・谷地の間に散在した。領知高の増減は中・下郷で調整され,藤井松平時代には,山形の西方の内表・中野・鮨洗の3か村を中郷と呼び約2,500石,下郷は溝延村五か組と仁田・小泉・日和田・箕和・新田各村で約1万石となっている。藩体制整備の諸施策は土岐氏時代にみられ,明暦元年の総検地の実施,城下町の拡張と整備および行政機構の刷新が図られ,藤井松平時代に引き継がれた。中期以降,藩財政の窮乏は甚しく,元文年間には酒田蔵元の加賀屋から200~300匁余の借金を重ね,宝暦4年には置賜郡川井村の堤三右衛門を介して,1万俵の年貢米を抵当に1,600匁を前借りしている。また宝暦10年頃より,約50%の家臣借上げは恒常的となった。上山藩の幕府への諸勤役の中でもっとも大きなものは大坂加番役であった。元禄15年から慶応3年まで,165年間に通算32回にのぼる。大坂加番役は,西国諸大名の監視役として,「大番」に対する加勢役として編成された軍事役で,上山藩の動員人数は,年により差があるが,家臣が約100人と郷夫350人余であった。しかしこの加番役は,ほかの勤役と違い,比較的多額の合力米(上山藩は約1万石)があったので,財政的な援助になるとみられていたようである。中期以後農村の荒廃は増大し,農民の生活は圧迫された。延享4年,城下町の打毀しと,3,000人余が参加した惣百姓的一揆は,藩の収納強化や流通統制に対し,その緩和を要求する闘いで,首謀者5人の打ち首・獄門などが行われたが,権力側も一部役人の処分をみる一方,要求内容のほとんどを勝ち取っている。天明・寛政期には藩政刷新をめぐり,藩主信亨・信吉とその側近の間に政争を繰り返した。人材登用,家臣団の統制,質地請返令の問題を中心に藩政の再編が試みられた。財政回復策の1つとして安永9年頃から移封運動が起こっている。中・下郷1万3,000石のうち7,000石余は永引地となっているため,実質的収納石高の少ないことが主な理由であった。その結果として文化10年,中・下郷分と引き替えに美作国(現岡山県)3郡が与えられ,翌年さらに越後国(現新潟県)三島・刈羽2郡に替え地となっている。幕末に藩政改革が断行されたが,その中心人物は,幕末の政治論争の中で公武合体の立場にある中老金子与三郎であった。農村の荒廃と村方騒動が多発する中で,農村の復興を図るため「社倉」を設置し,教導方を設けた。また万延元年には田畑請返策と公金貸付策を実施し,一方物価引き下げのため,「常平の法」を計画している。そのほか兵制の改革を図り,銃砲隊の整備も試みている。財政上では大きな成果を上げたが,金子は慶応3年,庄内藩などとともに江戸の薩摩藩屋敷の焼き打ちに参加して死亡した。幕末の戊辰の役では,奥羽越列藩同盟に参加し北越戦線に加わったが,慶応4年4月,新政府軍に降伏し,3,000石の召し上げで家名存続を許されている。明治4年6月松平豊熊(信安)は上山藩知事に任ぜられ,同年7月廃藩となり,上山藩領は上山県を経て山形県に編入される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7024543