寒河江荘
【さがえのしょう】

旧国名:出羽
(中世)平安後期~戦国期に見える荘園名。古代村山郡南西部を占める。村山盆地の北西部,最上川より北・西の平野・山間部に広がる。初見は関白藤原忠実の日記「殿暦」の天仁2年9月6日条(県史15上)で,白河上皇を迎えて行われた高陽院亭の競馬に出走した忠実の馬として「寒河江黒栗毛 余馬」と見える。当荘からの貢馬と思われ,同月26日の競馬にもこの馬のことが見える。「殿暦」天仁3年3月27日の条によれば,出羽守源光国が「予荘(忠実の荘園)寒河江庄」に乱入したため,忠実は白河院に訴えて家使を遣すべしとの仰せを得たという。光国の動きは前年11月の新立荘園停止令を受けたものと思われる。摂関家領荘園といえども荘園整理令の埒外ではありえなかったのである。建長5年に記された近衛家領目録(近衛家文書/県史15上)によれば,当荘は「京極殿領内」と記されている。天仁年間における荘園整理の波を乗り越えて,当荘の基盤はさらに固められ,鎌倉期にまで至ったことが知られる。天仁元年には荘内随一の巨刹慈恩寺(現寒河江市大字慈恩寺)の造営が鳥羽天皇の勅願,願西上人の下向によってなされたとする所伝もあり(慈恩寺縁起),当荘にとって天仁の年号が持つ意味は重大であったと考えられる。ところで,近衛家領目録(近衛家文書/県史15上)に記された「京極殿」とは「殿暦」の筆者関白忠実の祖父師実のことにほかならない。また,近衛家領目録には「宇治殿領事」として「平等院領の外,京極殿領と称するは是なり」という注記があり,京極殿師実の所領は父の宇治殿,頼通から譲り受けたものとされている。とするならば当荘の成立も関白頼通の11世紀前半にまで遡るということになる。近衛家領目録(同前)にはまた,当荘に関して「請所」「年貢沙汰成賢」という注記も見られ,鎌倉中期の当荘が本所(荘園領主)の荘務進退を受けることのない,いわゆる請所となっていたことが知られる。荘園管理の実権はすべて地頭によって掌握されていたものと考えられる。年貢沙汰に関与していた成賢は,同じく近衛家領山城国革嶋荘(現京都市左京区)の荘務に関して「成賢法師徳望」と記されたのと同一人物で,近衛家に出入の寺僧と思われる。鎌倉期当荘の地頭となったのは大江氏である。大江広元の嫡子,親広に始まる寒河江大江氏の系統は,親広―広時―政広―元顕―元政―時茂―時氏と続き戦国期にまで及んだ。親広は将軍実朝の側近として頭角をあらわし,右近大夫将監・遠江守・民部権少輔・武蔵守などを歴任した。承久元年正月28日実朝暗殺の翌日に出家し蓮阿と号した。同年2月29日京都守護に任ぜられ上洛。承久の乱に際しては京方に加わり敗れて消息を断った(吾妻鏡)。親広が父広元の姓とは違う源を名乗ったのは,源通親の猶子となったことによる(江氏家譜・大日本史料5-2,嘉禄元年6月10日条)。通親は土御門内大臣ともいい,京都政界随一の実力者であった。戦場を逃れた親広が当荘内に潜伏したとする所伝,あるいは親広が源と称したのは外祖父源(多田)仁綱から当荘を譲渡されたためとする所伝(安仲坊系図)があるが,根拠は明らかでない。親広の子,佐房・広時は京方には加わらず,承久の乱後も将軍家に近侍した(吾妻鏡)。佐房は信濃国上田(現長野県上田市)の所領を相伝し,上田家の祖となった。広時の子孫はやがて当荘内の各地に根を下ろし武士団として成長していった。広時の孫,元顕については天文本大江系図(県史15下)に「羽州寒河江持初也」と記され,大江氏の勢力が当荘に定着しつつあったことが知られる。元顕の子,元政は「羽州宮方ニテ討死」とあり,南朝方としての活躍が知られる。広時が相伝した地頭職は正確には当荘の南半分で,寒河江川より北の「寒河江北方」は広時の弟,修理亮隆元(高元)によって相伝されることになった。しかし隆元は30歳で早世し,遺領は後家が知行したが,やがて闕所となり大江氏の手を離れるに至った(天文本大江系図/県史15下)。所領没収の理由は不明。「寒河江北方」すなわち北寒河江荘の新地頭となったのは北条氏であった。永仁3年閏2月25日北条時宗の後家尼潮音院殿は「寒河江庄内工藤刑部左衛門入道知行分五箇郷」を時宗の廟所円覚寺(現神奈川県鎌倉市)仏日庵に寄進,それを受けて北条重時とその執事長崎光綱の文書2通も同日付で発給された(円覚寺文書/神奈川県史資料編古代中世2)。五か郷は潮音院殿が受け継いだ時宗の遺領の一部だったと考えられる。工藤刑部左衛門入道は地頭北条氏の代官として寒河江荘内五か郷の知行にあたっていた。北条氏所領北寒河江荘地頭職のうち,吉田・堀口・三曹司・両所・窪目(現河北町)の五か郷のみが円覚寺に寄進されることになった。この五か郷の地頭職はその後長く円覚寺領として存続し,応永年間にまで及んだ。荘園領主に対する年貢も京進されていたものと思われ,暦応2年から観応元年に至る「領家年貢返抄」が正平7年の円覚寺文書目録(円覚寺文書/県史15上)に残されている。当時の荘園領主(領家)の実名は不明であるが,近衛家の関係者と思われる。北寒河江荘のうち円覚寺に寄進されなかった部分の地頭職が北条氏の滅亡後だれに帰属することになったかは不明である。南北朝期観応2年4月21日の足利直義御判御教書(円覚寺文書/県史15上)・観応3年9月3日の足利尊氏御判御教書(瑞泉寺文書/県史15上),延文2年3月24日の足利義詮御判御教書写(武州古文書/県史15上)によれば,円覚寺領の五か郷の押領事件が起きた。このとき訴えられた「少輔与一・少輔掃部助」はあるいは大江元政かその親近者かと思われる。天文本系図に「少輔彦太郎因幡守」と記された元政が南朝方に投じて鎌倉初期以来の旧領回復をめざしたとしても不思議はない。元政は正平14年に討死にしたが(天文本大江系図/県史15下),大江氏の勢力は次第に強まり,室町期には当荘一帯を支配する国人領主として戦国大名への道を歩むことになった。円覚寺領五か郷の在所は寒河江川北岸の山すそ,現在の河北町の北部にあたる。五か郷のうち,吉田・両所は現在も集落名として残っている。三曹司は大町村枝郷沢畑(現河北町大字谷地字沢畑)の古名で,窪目も付近に小字名として残る。また,堀口は谷地の前身というが不明(河北町の歴史上)。集落の開発が山すその小扇状地から始まったことが知られる。なお,室町期に散見する北寒河江の地名としては,明徳元年10月3日佐藤松代丸坊地売券写(宝林坊文書/県史15上)に「北寒河江檜皮(日和田)」,永享11年3月8日阿闍梨宥盛・同幸海田地補任状(宝林坊文書/県史15上)に「慈恩寺領北寒河江箕輪郷内渡沢藤五郎在家」,応仁2年7月2日賢良渡置状(国分文書/県史15上)には「出羽国寒河江あつしほ(温塩)の郷の内,滝之在家」が見える。なお,賢良は白岩大江満教の法名という(寒河江市史年表)。檜皮(寒河江市大字日和田)・箕輪は慈恩寺付近の集落で,温塩は白岩(寒河江市大字白岩)の宮内方面の古名である(河北町の歴史上)。また当荘南方の地名としては,嘉吉2年11月27日平三家吉田地売券写(宝林坊文書/県史15上)に「寒河江庄〈南方〉八鍬」と見えるのが唯一の史料である。八鍬は寒河江川南の集落。室町期においてもなお南・北両荘の区分が存続していたことが知られる。しかし,荘園としての実体はこの頃すでに失われたと考えられる。戦国初期の永正15年慈恩寺金堂造営勧進状(慈恩寺本堂文書)に「羽州村山郡寒河江庄慈恩寺」とあるのを最後に,寒河江荘の文字は姿を消す。村山地方,現在の寒河江市・河北町の一帯および山間部の西川町・大江町に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7025163 |