鮭延郷
【さけのべのごう】

旧国名:出羽
(中世)南北朝期から見える郷名。鮭登とも書いた。村山郡のうち。興国3年と推定される8月24日付の結城親朝宛の某(白川為興か)書状(有造館本結城古文書写/福島県史7)に「抑先度便宜之時,茶を莫太送給ける……伹挙各下向之刻候之間,於鮭延辺,悉被奪取之由申候て,御状計到来」とあるのが初見。「真室川町史」では「鮭延辺」を新庄周辺としている。また寛正3年3月23日付の熊野先達職補任状案(熊野贈状之留/国会図書館所蔵貴重書解題6)に「出羽国鮭延郷之輩,熊野参詣先達職事無主之由,被聞食候了」とある。大永年間に秋田仙北の小野寺氏は客将佐々木貞綱を当地に遣わしたという(正源寺開闢縁起)。佐々木氏ははじめ最上川畔の岩花(現戸沢村)に居館を構えたが,永禄6年庄内武藤氏と戦って敗れ,鮭延城(真室城)に移り地名をとって鮭延氏と称したという(新庄古老覚書)。「大泉庄三権現縁記」(県史15下)に「当国主武藤出羽守殿御代ニハ,庄内二郡,鮭延五ケ所,サバネ山迄亦下由利郡迄,御持分也」とあり,武藤氏が最上地方まで支配していた旨を記している。当地は小野寺・武藤・最上3氏の抗争の場となった。永禄年間と推定される菊月17日付の狩川駅宛土佐林氏慶書状写(筆濃余里所収文書/県史15上)に「今度鮭延へ之人数為可相立,藤島之地へ罷越候」とある。天正年間に入ると最上氏の勢力が強くなり,天正9年の最上義光の鮭延城攻撃に際し,武藤氏も出兵し最上氏と戦火を交えたが鮭延城は落城,城主鮭延越前守秀綱(愛綱・典膳ともいう)は最上義光に臣従し最上氏の宿老となった。天正16年と推定される正月7日付の東禅寺筑前守宛最上義光書状(大塚甚内氏所蔵文書/県史15上)に「輙鮭延ニ相詰候人馬令労驤之間」とあり,鮭延城は最上氏が庄内・秋田仙北方面へ進出する拠点となった。元和7年9月吉日,庭月広綱が庭月八幡神社に奉納した鰐口銘(山形市史史料編1)に「出羽国鮭延郷庭月村」と見える。鮭延は真室(まむろ)と呼ばれる地域とほぼ同様と思われ,最上地方,現在の真室川町・金山(かねやま)町・鮭川村と戸沢村の一部および新庄市の一部を含むあたりに比定される。→真室

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7025270 |