泉藩
【いずみはん】

旧国名:陸奥
(近世)江戸期の藩名。譜代・小藩。高月藩ともいう。元和8年内藤政長が上総(かずさ)佐貫(千葉県)より磐城平藩主となり7万石を領し,長男忠興も磐城に入り,菊多郡・磐前(いわさき)郡・磐城郡3郡内に2万石を給わった。寛永11年忠興が父政長の遺領を継ぎ磐城平へ移ったとき,父の遺命により弟政晴が忠興領を継ぎ泉藩が成立。内藤氏は政晴のあと,2代在封。この間,寛文8年3月に居所を平の高月から泉に移転。元禄15年内藤氏は上野(こうずけ)安中(群馬県)に転封となり,同地より板倉重同が1万5,000石で入封。板倉氏は重同,勝清と在封し,延享3年遠江(とおとうみ)相良(静岡県)に転封。相良より本多忠如が入封。本多氏は7代在封。この間,2代忠籌は寛政2年に老中格になり,寛政改革に参画,定信・加納久周とともに寛政の三忠臣と評された。また忠籌が老中格に昇進したとき,上野・武蔵に5,000石を加増され,以後本多氏は2万石を領有。内藤氏時代の藩域は菊多郡内1万4,502石,磐城郡内1,360石,磐前郡内4,138石で,板倉氏時代は菊多郡内1万5,000石。本多氏時代は2万石になってから,菊多郡内1万5,000石,上野勢多郡内約2,000石,武蔵埼玉郡内約3,000石で構成されている。泉転封後の本多氏藩財政は,国替に要した費用が莫大となり,そのための借用金によって深刻な財政危機に直面した。2代忠籌は宝暦9年より倹約を中心とした藩政改革を実施し,天明元年には1万両の蓄財を達成し,改革を成功させている。泉藩の主な産物は農産物のほか,藍玉・塩・紙・塩肴など。幕末には国産品統制を目的とした国産物開発掛を設置。戊辰戦争には奥羽越列藩同盟に加わり,泉藩士は鶴磯・小浜・岩間辺の3台場へ出兵。慶応4年6月28日新政府軍は泉藩陣屋に攻撃を加え,これを陥落した。明治元年12月,政府は2,000石の減封を命じ,同時に7代忠伸が家督を継いだ。明治4年廃藩となり,7月14日泉県が成立し,のち平県・磐前県を経て,福島県に編入された。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7028940 |