加納荘
【かのうのしょう】

旧国名:陸奥
(中世)南北朝期から見える荘園名。賀納荘とも書く。耶麻郡のうち。康安元年10月6日の佐原高明寄進状案(実相寺文書/県史7)に「陸奥国加納庄内鷲田村内中在家一宇,同空性房在家一宇拝(並)仁針生村内笠張在家一宇,合三間之事,坪付別荘右所者,高明重代相伝所領也」とあるのが初見。「新編会津」巻64上三宮村の条に「此村昔は今の地より西方の方所々に散居し加納村と云,八日町・三日町・棚木・三島前・願成寺などいう小名あり,後改て三宮村と云」とあり,加納荘を領した佐原氏の居城とされる青山城跡が上三宮村に存在するとしている。しかし応安2年2月27日蘆名詮盛が「陸奥会津郡加納荘内上野村勝満寺領田畠」を実相寺に寄進し(実相寺文書/県史7),応安6年卯月28日蘆名直盛が「陸奥国会津加納庄大荒居村内正連屋敷六百束苅・石田三百束苅・沢目七十束苅」を三浦小荒居四郎左衛門入道に安堵している(小荒居文書)ことから,青山城に本拠を置いたとされる佐原氏のみではなく,黒川の蘆名氏の勢力も南北朝期にはすでに当地に及んでいた模様である。永享6年6月5日蘆名盛政譲状(石川文書)に加納荘を盛政が子の盛久に譲った旨が見え,室町期には蘆名氏の一円支配が確立したと思われる。戦国期になると村落には地頭とよばれる蘆名麾下の国人や地頭が館を構えており(新編会津),荘園としての実体は失われている。荘内にある半在家・五分一などの集落名の存在は下地中分を示すものと思われるが,領家・地頭の関係は不明である。天文14年正月に書写された新宮熊野神社の「熊野宮相撲田楽日記案」に当荘からも相撲役を奉公した旨が見えている(新編会津)。佐原氏の居城とされる青山城の近くには嘉禄3年浄土宗多念派の隆寛が開基しその法弟実成が建立したとされる浄土宗叶山願成寺(新編会津)と佐原五郎盛時が承久年間に勧請したと伝える三島神社(耶麻郡誌)がある。会津地方北部,現在の喜多方市北西部を中心として,熱塩加納村西部・山都町北部を含む一帯。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7030106 |




