田村荘
【たむらのしょう】

旧国名:陸奥
(中世)南北朝期から見える荘園名。建武2年10月26日の陸奥国宣(結城文書/県史7)に「白河・高野・岩瀬・安積郡,石河・田村庄,依上・小野保等検断事,可令奉行給者,依 国宣執達如件」と見え,結城親朝に当荘などの検断権を与えたのを初見とする。当荘園の成立した時期は不明であるがおそらく「和名抄」の小野・芳賀・小川・丸子の4郷が平安末期に荘園化したものであろう。鎌倉期には田村氏が荘領所か荘司になっていたものと思われる。田村氏は,藤原姓であったようで,元弘3年6月5日の田村宗猷女子藤原氏女代超円着到状(相馬文書/県史7)に「陸奥国田村三川前司入道宗猷女子七草木村地頭藤原氏」の名がみられる。このことに関連して,「古今著聞集」巻20には陸奥国田村郷について「此所は,前刑部大輔仲能朝臣が領になむ侍るなり」とある。仲能は藤原秀郷から9代目の田村伊賀字仲教の子で,鎌倉幕府の評定衆となっている。また,「太平記」によれば元弘元年9月20日田村刑部大輔入道が,20万の兵とともに笠置山に向かっている。南北朝期の初め,田村荘司が誰であったのか明らかではないが,延元4年と推定される5月4日の北畠親房袖判沙弥宗心書状(相楽文書/県史7)によると,田村宗季が荘司として認められていたようである。田村宗季は南朝方についていたが,一族のすべてが南朝方になっていたわけではなく,延元3年11月11日の北畠親房袖判宗心書状(松平結城文書/県史7)に「田村庄司一族中,少々違変之由聞候」とある。荘園内の大きな事件は,南朝方の拠点宇津峯城をめぐる争いで,文和2年5月日の国魂行泰代隆秀軍忠状(国魂文書/県史7)に「去年,観応三,為陸奥国田村庄凶徒顕信卿已下御対治……同七月三日於田村庄柄久野原,抽戦功」などと見える。応永3年には,小山若犬丸が田村城(守山城)に籠ったので,足利氏満がこれを追った。この乱は,応永2年から始まり,10月7日の斯波満持感状(飯野文書/県史7)に「田村御退治之事」と見え,応永3年6月12日の足利氏満御教書写(楓軒文書纂65/神奈川県史古代中世資料3上)にも「奥州田村庄司対治事」とある。田村庄司が滅亡後の応永4年7月8日の足利氏満御教書(結城文書/県史7)には「䉼所陸奥国田村庄三分壱肆拾村事,当年壱作所預置也」と見え,結城満朝に預けられた。また,応永4年と推定される9月8日の足利氏満書状(同前)に「䉼所奥州田村庄事,去月廿三日遂入部之節候」と見え,結城満朝の一族が,田村荘の代官として入部している。この時,田村荘は,鎌倉府の䉼所となっていたものとみられる。応永4年7月22日の足利氏満御教書(結城文書/県史7)では,結城満朝は,一族の小峯氏を田村荘の代官として派遣した。応永4年と推定される12月25日の重吉等連署年貢銭請取状(甲斐結城文書/県史7)に「御䉼所陸奥国田村庄之年貢銭之事,合伍十貫文,目録在之,右為小峯殿御分」と見える。応永30年8月23日の乗々院役僧奉書(青山文書/県史7)に「奥州田村庄司遠末一家先達職事」と見え,糠田侍従阿闍梨に安堵され,この後応永33年・永享2年・嘉吉元年・康正2年・長禄2年・延徳2年などにも当荘園の先達職のことがみられる。当荘の荘園領主は戦国期まで,熊野新宮であったが,いつこの関係が成立したか不明である。天正14年10月13日の熊野山新宮年貢帳に「田村六十六郷」とあり(青山文書/県史7),元来は66郷であったものと思われる。同18年10月9日の熊野新宮領差出帳(片倉文書/三春町史7)に「熊野へ出る」と見え,年貢銭を熊野新宮へ納めていたことがわかる。天正18年までは,田村氏が荘園の代官職を持っていたが,天正18年9月21日の豊臣秀吉朱印状写(片倉文書/三春町史7)では,片倉景綱に与えられている。中通り中部,現在の田村郡小野町・大越町・常葉町・船引町・三春町および郡山市の一部を含む一帯に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7032296 |