栗橋郷
【くりはしのごう】

旧国名:下総
(中世)南北朝期~戦国期に見える郷名。下総国下河辺荘のうち。康暦3年2月5日の某充行状に「下 下河辺荘栗指郷一分事,右,所充行也,早任先例可致其沙汰之状如件」と見える。「栗指郷」は栗橋郷のことと思われ,島津左京亮に充行われている(青木氏蒐集文書/古河市史)。「本土寺過去帳」の15日の項に「朗伝〈入道クリハシ,明応六正月〉」と見える(千葉県史料)。天文23年12月24日の足利義氏充行状写に「先御落居之地廿五郷,向五郷・栗橋・小手指」と見え,野田左衛門大夫に充行われている(野田家文書/古河市史)。野田氏は古河公方足利氏の直臣で,戦国期には当郷内の栗橋城主であった。「長楽寺永禄日記」永禄8年5月8日条には「岩付善悪之巷説マテニテ,実セツ無之間金山へ登,太美(太田資正)シボヘ(渋江)宿之近マテツメラル処ニ,談合之内一人クミカワリ相違之間,自半途被打返,下野守・小宮山其外談合衆モ無相違,栗橋ヘノケラル由,承届帰也」と見える(長楽寺文書/群馬県史)。永禄10年と推定される5月8日の野田政朝充北条氏照起請文に「一,栗橋之地利御望有間敷由候事」とある(野田家文書/神奈川県史)。同文書は永禄8年の小田原北条氏と関宿(千葉県)の簗田氏との関宿合戦が翌年に和睦となり,北条氏照が当地を侵さないことを誓ったもので,この時期にも,依然として野田氏が栗橋城主であったと考えられる。しかし,永禄11年に第2次関宿合戦が起こり,同年と推定される11月19日の北条氏照朱印状写によれば,海鼠200盃・鯛50枚・蛸30盃を栗橋へ届けることを富部郷(神奈川県)の船方に命じており,この時期には小田原北条氏の勢力下に置かれたものと思われる(戸部村平兵衛所蔵文書/武州文書)。永禄12年と推定される6月28日の野田政朝充北条氏照書状写および同年7月1日の北条氏政書状写によれば(野田家文書/古河市史),当地は小田原北条氏の支配下に置かれ,栗橋城は実際には氏照の持城となったこと,栗橋城には「栗橋衆」といわれる氏照配下の土豪からなる城番衆がいたこと,栗橋衆に野田氏は含まれず,当地は野田氏の支配から離れていたことなどが知られる。永禄11年と推定される10月17日の北条氏政書状写によれば,野田政朝はその後鴻巣に居住したらしい(同前)。天正2年に第3次関宿合戦が起こり,同年と推定される10月18日の足利義氏書状によれば,当時北条氏照が栗橋城に在城している(園田文書/古河市史)。これに対し,同年上杉輝虎が関東に出兵し,閏霜月20日の上杉輝虎書状によれば,蘆名盛氏に「古河并南衆抱候栗橋・同館林,四五ケ所之敵城」を押通したことを報じている(名将之消息録/古河市史)。その後,天正5年と推定される宇都宮国綱充結城晴朝書状に「陸奥守栗橋江打著,公方様(足利義氏)鎌倉江移御座申,古河・栗橋堅固之仕置可有之由候」と見え(小田部庄右衛門氏所蔵文書/古河市史),同年と推定される閏7月21日の足利義氏書状の封紙には「芳春院 従栗橋」とあり,当時足利義氏が居住していた(阿保文書/古河市史)。天正5~6年頃から小田原北条氏と佐竹氏・宇都宮氏などの戦闘が激化し,当地は小田原北条氏のもとで小山城(現栃木県小山市)に対する中継地・兵站基地の役割を果たす。天正8年,佐竹・結城などの諸氏が下総に出陣。同年と推定される12月15日の結城晴朝充武田勝頼書状に「依之,為当方御手合,諸家被仰談,至于古河・栗橋,被動干戈之由,誠快然候」と見え,佐竹氏などが古河・栗橋に攻撃をしている(野口文書/古河市史)。この際,防戦にあたったのは足利義氏・簗田持助などで,当時北条氏政は武田氏に対するため三島(現静岡県三島市)に出陣中であり,武田氏と佐竹氏・結城氏などの間には,小田原北条氏を挾撃する密約がかわされていたものとみられる。また,佐竹氏は天正11年にも出陣し,同年と推定される卯月19日の古河足利家奉行人連署書状写によれば,北条氏照に当地に在宿している氏照の家臣を古河城に移すことを要請している(喜連川家文書/古河市史)。同年と推定される8月8日の古河公方足利家奉行人連署書状写によれば,足利義氏の娘氏姫が当地に移った(同前)。天正15年と推定される11月2日の北条氏照朱印状では,久下郷(現埼玉県加須市)にある川面監物以下8名の給田の検地が行われ,その増分を11月15日まで栗橋御蔵へ納めるよう代官金子左京亮に命じている(広瀬文書/武州文書)。また同年11月3日の北条氏照朱印状では,久下郷の年貢は66貫520文であったが,この年検地増分として27貫文が加えられ,11月15日までに栗橋御蔵へ納めるよう命じている(同前)。同月の北条氏照朱印状によれば,栗橋の普請のうち4間が久下郷に割り当てられ,11月13日から普請に加わるよう金子左京亮と久下郷の百姓に命ぜられている(同前)。栗橋城は天正年間には北条氏照の支配下に置かれており,少なくとも利根川以南の下河辺荘および武蔵国埼玉郡の一部も栗橋城の支城領であったと思われる。天正17年と推定される10月21日の宇都宮国綱書状によれば,国綱が佐竹義重とともに古河・栗橋の攻撃に向かうことが述べられている(伊達家文書/古河市史)。天正18年の豊臣秀吉による小田原北条氏攻撃に際し,栗橋城も豊臣勢の勢力下に置かれた。同年と推定される7月10日の寺西正勝書状によれば,栗橋城はこれ以前に落城し,寺西正勝が入城している(浅野文書4/大日古)。天正18年と推定される年月日未詳の関東八州諸城覚書には「一,同(下総国)栗橋 同(北条陸奥守)」と見え,天正18年当時も北条氏照の支配する城郭の1つとして栗橋城が記載されている(毛利家文書4/神奈川県史)。なお同年9月9日の石塚照吉由緒書に「一,栗橋城廻ニテ,永銭五拾貫文,手作分也,右之御判失候」と見え,栗橋城主野田弘朝の家臣石塚照吉が,「栗橋城廻」で50貫文を知行していた(小山市立図書館所蔵文書/小山市史)。慶長17年8月6日の関東八州真言宗連判留書案には「下総国下河辺クリハシ閏十月廿三日申刻,実相院在判」と見える(醍醐寺文書3/大日古)。現在の五霞町元栗橋に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7036899 |