下河辺荘
【しもこうべのしょう】

旧国名:下総
(古代~中世)平安後期~戦国期に見える荘園名。下総国葛飾郡(のちに一部武蔵国に属す)のうち。久安2年8月10日の平常胤寄進状写に下総国相馬御厨の境界として「西限下河辺境并木埼廻谷」と見える(櫟木文書/古河市史)。現在の古利根川と江戸川に挾まれた地域で,県内では古河市,宮戸川の東部を除く総和町の大部分,五霞町が含まれ,さらに埼玉県栗橋町・幸手町・春日部市・庄和町・松伏町・吉川町・三郷市にわたる狭長にして低湿な地域であった。地名は利根川縁辺に位置したことによると思われる。開発領主は藤原秀郷の後裔にあたる下河辺氏とみられる。「尊卑分脈」の下河辺氏系図によれば,始祖の行義は下野国の有力在庁官人であった小山政光の弟にあたり「下河辺荘司」を,その子行平は「次郎荘司」を称していた。また行平の子は幸島氏と称し下河辺荘の東方,下総国幸島郡へと開発を発展させていった。「平治物語」によれば,下河辺行義は源頼政の郎等として平治の乱に加わり,行平は「吾妻鏡」治承4年5月10日条に「下河辺荘司行平進使者於武衛,告申入道三品用意事云々」と見え,頼政に従軍し,平家追討の挙兵計画を源頼朝に告げている。「詞花集」や「顕昭古今集註」によれば,源頼政は父仲政が下総守になったとき,ともに下向していることから,下河辺氏はこの時期に家人となり,下河辺荘も頼政を通して鳥羽院か美福門院に寄進されたとみられる。「吾妻鏡」治承4年10月23日条に「行平如元可為下河辺荘司之由被仰」と見え,源頼朝の平家追討に参陣した勲功として,もとのごとく下河辺荘司を安堵された。当荘はその後,美福門院の娘八条院に伝領されたらしく,「吾妻鏡」文治2年3月12日条の「関東御知行国々内乃貢未済荘々注文」のなかに「八条院御領下河辺荘」と見え,同4年6月4日条にも八条院領として記載されている。その後,当荘は八条院から養子藤原良輔に伝領されたらしく,建保6年に死去した左大臣藤原良輔家遺領目録に「下総国下川辺荘年貢三十貫〈為地頭請所沙汰之云々〉」と見え,地頭請が行われている(門葉記雑決/古河市史)。「吾妻鏡」建長5年8月29日条によれば,幕府は当荘の堤の修築を命じ,4人の奉行人を任命しており,また文永12年4月27日の金沢実時譲状によれば,「下総国下河辺荘前林・河妻両郷并平野村」が妻の藤原氏に譲与されていることから(市島謙吉氏所蔵文書/古河市史),当荘は鎌倉中期には北条氏の所領となり,その一部が北条氏の一族金沢氏の所領になったとみられる。それに伴い下河辺氏の一流が北条氏の家臣になったとみられる。永仁2年正月の称名寺領下河辺荘村々実検目録によれば,永仁元年には下河辺荘下方の村々が金沢氏から武蔵国金沢称名寺に寄進されており(金沢文庫文書/古河市史),その後,15世紀中頃まで同荘の一部は称名寺の支配となっている。なお八条院領は八条院暲子の没後,皇室領として相伝され,亀山法皇没後に遺領の配分があり,嘉元4年6月12日の永嘉門院御使申状并昭慶門院御領目録案に「庁分」のうちの荘園として下河辺荘が見える(竹内文平氏所蔵文書/古河市史)。文保2年正月16日の尼慈性寺領寄進状写に「かはつまの郷内之田弐丁,か□くわう寺へまいらせ候」と見え,川妻郷の田2町が戒光寺へ寄進されているのをはじめ,元亨3年正月10日の某寄進状や年未詳の某寄進状にも河妻郷内の新田や屋敷が戒光寺へ寄進されている(金沢文庫文書/古河市史)。この戒光寺は嘉暦3年3月21日の剣海某書奥書や応安元年7月25日の什尊某書奥書に「下河辺前林」と見えるように,前林にあった武蔵国金沢称名寺の末寺である(同前)。称名寺とは僧侶の交流もあり,戒光寺で写された聖教類もあったが,外護者の金沢氏が鎌倉幕府とともに滅亡したのちは急速に衰微したとみられ,現在前林の南部にある海耕地(かいこうち)なる小字名がその跡と推定される。また鎌倉後期と推定される称名寺寺用配分状には「中務大輔殿(金沢貞顕)御分下川辺荘内配分事」として「野方〈米八石六斗九升七合五夕九才,銭十一貫九百廾一文〉」とあり(金沢文庫文書/古河市史),この野方は総和町北部とみられる。鎌倉幕府滅亡により,称名寺領は一時没収され,のち後醍醐天皇の勅願寺として安堵されたが,北条氏領は鎌倉府御料所として足利氏の支配になったとみられる。14世紀末には,下野(しもつけ)の小山義政が関東公方に背き,周辺を侵略したため,足利氏満によって制圧された。この乱の平定後,「頼印大僧正行状絵詞」によれば,至徳3年室町幕府に対し下河辺荘の御料所復帰を図り将軍足利義満に認められている。以後同荘は関東公方の御料所として相伝されたらしく,享徳4年足利成氏が鎌倉より古河へ移座してからは古河公方の御料所として存続したとみられる。成氏がこの地に移った理由としては,政治的・軍事的な位置や古利根川の水運の基点といった背景とともに下河辺荘をはじめ周辺の御料所を経済的基盤となしえたことがあげられる。文明8年6月24日の年紀を有する山王山東昌寺の鐘銘に「大日本国下総州下河辺荘桜井郷 六国山東昌禅寺大鐘 願主大旦那,簗田河内守持助」とあり,文明年間には古河公方の重臣簗田氏の支配地となっている。また「鎌倉大草紙」には「成氏も同年の十月相州下河辺古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける」,「永享記」には「此古河の城は昔日頼朝卿の御弓の師と聞へし下河辺荘司行平より,代々住ける旧館なり,城南東方に竜崎と云所に,有源三位頼政之廟」と見えるが,下河辺荘と古河との関連を直接知りうる古文書は見あたらない。天正2年12月2日の芳春院周興・昌寿連署書状写には古河公方の御料所として62か所の地名とその知行人名が列記されているが,そのうち下河辺荘に属するとみられるのが26か所ある。5つの地域からなるが「古河・関宿之間」として大山・河妻・こうたて・前橋・砂井・大福田・網代,「荘内河辺」として,こたへ・五木・岩な・ふなかた・目吹・いわ井・中里・宝殊花・木まかす・柴崎・三ケ尾・三ほり,「野方之内」として上大野・関戸・小堤・牛谷,「向古河近辺」として,いゝつ見,「下河辺之内」として番匠免,はたやの地名が見える(喜連川家料所記/古河市史)。また五霞町の両新田には鎌倉期の作とみられる石造地蔵菩薩立像が所在し,近くを通称鎌倉道が通っている。これを北へ向かうと総和町前林から関戸へと通じる。関戸には鎌倉期の造立とみられる石造宝塔が所在する。なお当荘名は,江戸期においても古文書や石造物の銘文に「総州葛飾郡下川辺庄関宿領川妻村」(文化8年建立庚申塔)などと散見される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7037579 |