大同村
【だいどうむら】

(近代)明治22年~昭和30年の鹿島郡の自治体名。東は鹿島灘,西は北浦に面する。志崎・大小志崎・武井・武井釜・津賀・浜津賀・和・棚木・荒井・青塚・角折の11か村が合併して成立。旧村名を継承した11大字を編成。役場を津賀に設置。明治24年の戸数600・人口3,979,厩376,船179。村名は11か村が合併するにあたり小異を捨てて大同をとるという意を表して称したもの。明治20年代から昭和20年代前半まで中央台地の山林原野の開墾が行われた。養蚕業も次第に盛んとなり,昭和5年の桑園面積は111町2反余で総耕地面積の11%,飼養戸数は春秋蚕を通じて262,全農家の26%に上っている(大野村史)。林業も盛んで,多量の薪炭が東京方面および銚子(千葉県)方面へ出荷された。水産業とりわけ地引網漁業も重要な産業であった。昭和5年の地引網数は村内で15張,同年の漁獲量はイワシ36万貫余・サバ2,890貫余・アジ3,600貫余(大野村史)。農業経営では,昭和初期の小作農家46%・小作地率62%に達し,昭和元年から翌年にかけて小作争議が起きている(同前)。村当局は昭和6年から10年代にかけて経済更生を目指し,対策を講じた。明治23年利根川と江戸川を結ぶ運河が開通。明治22年武井の武井小学校を大同尋常小学校と改称し,和・青塚・武井釜に分教場を設置したが,同25年には独立しそれぞれ大同第一小学校・大同第二小学校・大同第三小学校・大同第四小学校となった。明治27年津賀に大同高等小学校開設,のち大正12年大同第一小学校・第二小学校は合併して大同西小学校に,大正5年大同第三小学校・大同第四小学校も同じく大同東小学校となる。明治42年の戸数810・人口4,811,世帯・人口は大正9年1,039・5,194,昭和2年1,037・5,363,同10年1,020・5,773,同25年1,242・7,563。昭和30年大野村の一部となり,11大字は同村の大字に継承。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7038015 |