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八溝山
【やみぞさん】


県の北端にある山。標高1,022.2m。八溝山地・八溝山塊の主峰で,本県の最高峰。砂岩・ケツ岩を基盤とする中生層からなる。福島県との県境をなし,栃木県にもまたがる。かつては山頂の西が下野(しもつけ)国那須郡,北は陸奥国白河郡,南東は常陸国久慈郡に接し,3国の国境をなした。古くは陸奥国白河郡に属し,のちに常陸国に属するようになった(新編常陸)。山名は山体が浸食されて八方に浸食谷が発達し,久慈川・那珂川にその渓流が注いでいるためといわれる(同前)。山頂には八溝嶺神社がある。景行天皇の時代,日本武尊が東北遠征に向かう折,平定祈願をしたのが始まりと伝えられる。大同2年弘法大師参籠,また源頼朝が文治5年奥州合戦の折参拝したという。慶安元年には徳川家3代将軍家光が7石の朱印地を与えた。徳川幕府は「八溝の御桝回し」といって,周辺の常陸国依上保内郷・下野国那須郡や陸奥国白河郡から春と秋の2回穀物を奉納させた。信仰圏は広く,遠鳥居が西郷(栃木県),大子(だいご)・袋田・生瀬(なませ)(久慈郡),高野・石井(福島県東白河郡)にあった。「白川古事考」所収の八溝山鐘によれば,天文7年10月陸奥白川城主白川直広が大檀那となって八溝山に鐘を寄進している(日本古鐘銘集成)。中腹には天台宗日輪寺がある。開基は役小角または弘法大師といわれ,国家鎮護の道場となった。かつて,山頂には大伽藍がそびえ,上の坊・中の坊・下の坊とあり,永延年間には坂東三十三番観音霊場第21番札所,上の坊の奥の院月輪寺は仙道24番の札所として参拝者でにぎわったが,現在その面影はない。「続日本後紀」には八溝山から採れた砂金を承和3年遣唐使の資金として献上したため八溝嶺神社は従五位下勲十等に任ぜられ,八溝黄金神の神号と勅額を賜ったと見え,そのため山頂からの湧水を金生水・黄金水とよんだという(新編常陸)。八溝の金生産の最盛期は佐竹氏の時代であり,水戸藩にも金山開発が受け継がれたが,生産は少なかった。明治35年には八溝金山が創立されている。久慈川流域には西金・盛金など金のつく地名が多く,金採取の名残といわれる。登山口には大蛇が住んだという蛇穴がある。日輪寺協の沢ではワサビ栽培が行われている。「新編常陸」には「久慈郡山中ノ陰谷ニ生ズ,久慈郡下小川村檜沢口ノ百姓弥兵衛,当時山横目役タリ,其先祖ニ水戸義公ヨリ,朝倉山椒ト山葵ヲ賜ハリ,土地ヲ察シテ之ヲ植シム」とあり,下小川村の弥兵衛の先祖が徳川光圀からワサビの苗を拝領して栽培したのが始まりといわれる。それが八溝山の渓谷に取り入れられたもので,八溝ワサビとして知られる。周辺の山林は国有林が主で,植林が盛んになったのは明治政府の林業政策との関連が大きい。明治29年頃,山村地域では耕地より山林を重視したほどで,中等以上の家では植林に力を入れた。春の植付期には連日数十輌の馬車が引きもきらず,那珂郡の菅谷・杉・後台・中台の諸村から苗木を積んで久慈郡地方に向けて運ばれた(大日本山林会報)。同42年には防火線を設け火入れして焼き払い,約12kmにわたる固定防火線が設定され,国有林野事業特別経営事業の一環として大規模造林が開始された。防火線は大子町上野宮字土橋から取上峠を経て八溝山頂から栃木・福島との県境を通り上野宮字梅沢に及ぶもので,小万里の長城の観があったという。同43年4月下旬から5月にかけて約327haに約88万本(ヒノキ約68万本,スギ約20万本)を植え付けた。同44年にもヒノキ12万本・スギ11万本の補植が行われた。人工林育成は地元住民が現金収入を得るため,営林署と協力して行った。同44年には静岡県天竜林業を視察して八溝山に天竜スギを持ち帰り植林した初代旅沢藤治衛門を先祖にもつ旅沢氏によって,八溝愛林同志会が結成された。その後大正5年に解散,そして愛林組合およびその下部組織としての森林消防隊が組織され,下刈・盗伐・山火を防ぎ人工林の育成に積極的に協力した。この人工林は昭和36年から伐採が始まった。自然林は学術保護林として山頂付近や中腹に一部残っているにすぎない。日輪寺周辺は保護林に指定されている。600m以上にはブナ・ミズナラがみられる。また,八溝山を北限とするツガ・ギンバイソウも生育する。動物では日本では珍しいヤマネが山頂付近に生息している。八溝山周辺から採れる八溝石は庭石として珍重される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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