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吾妻村
【あづまむら】


(近代)明治22年~昭和29年の足利郡の自治体名。北部は石塚台地の南縁に連なり,大部分は旗川・才川などの大小の河川によって形成された沖積地に位置する。村上・上羽田・下羽田・高橋の4か村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。役場を上羽田に設置。明治24年の戸数552・人口3,203(男1,599・女1,604),学校2,水車場2,船38。低湿地のため,たびたび水害を受け,明治23年の大洪水の際には,足尾銅山の鉱毒による被害が表面化した。下羽田の庭田源八はその惨状を「竹木は枯れ,稲の収穫は減じ(中略)草刈はなし,家畜飼料および肥料などにいたるまで滅失し,悲しむべきは鉱毒被害人民なり」と記している。また,明治36年頃の記録(下羽田村字是)によれば「往古一般ニ肥沃,麦作ノ如キハ蔬菜栽培ノ跡地ニ而カモ無肥料ニテ栽培スルニアラザレバ倒靡シテ収量ナシ。又藍ハ盛ニ栽培セラレ,蔬菜は此地ノ特産ニシテ(中略)然ルニ今日ニ至リテハ事態全ク一変シ,(中略)魚類ハ跡ヲ絶チ,更ニ其影ダモ認メズ。耕地ハ生産力枯レテ(中略)殊ニ近年ニ至リテハ(中略)河水ノ氾濫益々其度ヲ増シ,且ツ洪水水量ヲ多クシ,毒土侵入シ(中略)往時繁華隆盛ノ地ハ,忽然トシテ寂寞タル寒村ニ陥レリ」と見える。明治30年頃の調査によると,当村の鉱毒による被害反別は563町4反であった。その頃村内では賛否両論があったものの,銅山側と示談書を取り交わしている。昭和10年の田341町3反・畑143町2反。吾妻梨の栽培は明治初年群馬県から苗木を移入して始めたと伝える。吾妻八景は「八幡の森」「夫婦川」「堤の桜」「三郡鶏鳴」「二瀬の浦島」「蛇沼の落雁」「竜江院の晩鐘」「吾妻の梨子郷」。世帯・人口は,大正9年607・3,389,昭和10年579・3,368,同25年672・4,013。昭和30年1月1日佐野市の一部となり,4大字は同市の町名に継承。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7040541