稲荷町
【いなりまち】

旧国名:下野
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は日光門前東町の1町。古くは稲荷川左岸に位置し,皆成川村・稲荷川町と称したが,寛文2年の洪水ののち人家が大谷川右岸の現在地に移転してからは,主に稲荷町と称し,出町とも称された。元禄年間頃の「日光古図」(東照宮蔵)によれば,稲荷川左岸には2筋の道筋が通り,1筋には北から1~4丁目・火之番屋敷が見え,川沿いのもう1筋に裏町通が見える。また,「堂社建立記」によれば,寛文の洪水に際し,「稲荷川四町,上一町残,萩垣町・鍛冶町三百軒余押流」とあるので,稲荷川町の一部が萩垣町・鍛冶町などと称していたことがわかる。日光神領。「慶安郷帳」では「皆成川村」と見え村高62石余(畑のみ),「元禄郷帳」では「古皆成川村,稲荷川町」と見え39石余。なお,元禄14年「日光領目録」では「外山分」として39石余が見え(県史近世6),また,「天保郷帳」では「古者稲荷川町,外山村」とあり,村高は41石余となっている。寛文2年の洪水による流失家屋300軒余,死者148人,被災者915人(日光市史)。被災後,宅地移転者200軒に3両宛,貧民60人に6両宛の救恤があり(徳川実紀),稲荷川町の大多数の人家が移転した。その後,洪水にあったもと稲荷川町地域は外山村あるいは萩垣面と称したが,行政上は移転後の当町に属して当町の1地区となった。貞享元年の日光大火による当町(出町と見える)の焼失家屋127(日光市史)。明和7年家坪数書上帳によれば,家数92軒,うち萩垣面5軒と見えるが,同年の潰家坪数書上帳に潰屋36軒が書き上げられているため,同年の家数は56軒だったと思われる(県史近世6)。文久年間の記録では,日光奉行配下役の当町内居住者12。慶応年間の家数53・人数252。文政12年の年中御役勤方帳によれば,当町もほかの門前町と同様に日光山の祭祀や日常生活に関係する人足夫役を負担しており,その内容は,4月御祭礼供奉御役109人,9月御祭礼供奉御役78人,3月御祭礼供奉御役16人,ほかに御宮御霊屋大掃除栗石返シ,御門主様三度御登山之節御発駕役,御宮日勤御掃除1日2人,御殿地石垣上草刈りなど多岐にわたっている。しかし,潰家なども多く,人足をすべて負担することは困難になっているため,たとえば4月御祭礼における人足109人のうち50人は,七里・野口・和泉の3か村が代わって勤めている(同前)。神社は建保2年禁裡守護の稲荷を勧請したものと伝えられ,河川・町名にもなった稲荷神社があり,民家と同様洪水ののち現在地に移転された。また,虚空蔵堂は寛永年間に神橋高台の星の宮(磐裂神)を現在地に分祀したもので,東町6町の総鎮守である。寺院にはもと多聞坊と称した天台宗香煙山瑞応院多聞寺があり,のち廃寺となったあとも多聞坂の名を残している。地内に西行戻石があり,往時西行登晃の砌,地元の小童が麦のことを「冬もえて夏枯草」と表現した才智に驚いて立ち戻ったという口碑を伝える。明治5年の戸口は58・239。同7年日光町の一部となり,同年日光町,同22年からは日光町日光の通称地名。昭和29年日光市の町名となり,1~3丁目がある。同53年の世帯・人口は,1丁目190・641(男293・女348),2丁目171・585(男284・女301),3丁目95・349(男173・女176)。市内屈指の住宅地域として発展している。昭和58年御幸町から日光警察署が移転。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7040725 |