鴻野山
【こうのやま】

旧国名:下野
大川上流に位置する。地名の由来については,樹木が繁茂した丘陵に鴻鳥(こうのとり)がすんでいたことによるとも,往昔蚕食郷(このくいのさと)と称したことによるともいわれ(荒川村誌・郡役所編那須郡誌),あるいは隣接する芦生沢(小倉のうち)との地続きの地形上から荒野山であったことによるともいわれ,荒野は興野と音を一にし開墾地を意味するのであろう。また一説に豪農山といい,往昔丘陵上に居住していた長者にちなんで名付けたものともいわれる。字萩の平に萩の平遺跡があり,石棒・すり石・石皿・凹石・土器破片などを採集している。字長者ケ平に長者ケ平遺跡があり,炭化した焼米が出土する(荒川村誌)。長者ケ平に関しては往古朝日・夕日の2長者がいたとの伝説がある。朝日長者は鴻野山北方台地から小白井丘陵に,夕日長者は熟田(にいた)村根本裏丘陵に館を構え,当地内鍜冶ケ沢・厩久保・長者ケ平に家子を居住させ,金銀米酒倉に満ち,栄華を誇っていたが,八幡太郎源義家が後三年の役に奥州への往途長者の館に立ち寄り1,000人分の食糧雨具を求めたところ長者は即時に美酒佳肴を用意したため,源義家はその勢威を恐れて後日の反乱を憂い,奥州遠征の帰途,長者館を焼討ちして一族を滅ぼしたと伝える。ただし,長者を塩谷長者のこととする伝承もある(同前)。長者ケ平を通って小白井・葛城に至る道路は将軍道(辰街道)と称され,交通の要所であった。長者ケ平周辺の地名に厩窪・鍜冶ケ沢・百駄窪・糖塚・雑布窪・金窪・瀬戸窪・大仏・金塚などがある。大仏には自然石に刻された供養文字があり,金塚には寺の跡と見られる大礎石がある。鍜冶ケ沢からは素焼きの赤屋根瓦が出土し,かめ・石鏃なども出土した。
【かうの山(中世)】 戦国期に見える地名。
【鴻野山村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【鴻野山(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7041789 |




