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御幸町
【ごこうまち】


旧国名:下野

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は日光門前東町の1町。当町は,もと日光山内の中山通りにあって新町と称した。寛永10年東照宮鎮座の際の御用勤めの功と祭礼御輿渡御の道筋の故をもって,天海に「日光山東照大権現御勧請以来基立の間,御幸町と号す,これにより永代諸役免許せしめ畢ぬ,てへれば此旨を守り,御祭礼その外の御奉公に如在あるべからざるもの也」と安堵された後は,御幸町と称し(日光市史),その後も代々日光山輪王寺宮によって安堵状が出された(御幸町文書)。当町は,寛永17年の町割に際し,日光山内にあった町家が鉢石町東側に移転され新たに町並みが整えられ,移転当時は,稲荷町なども含めて新町とも称した。貞享元年の日光大火による当町の焼失家数は新町と見え35軒(日光市史)。町内には徳川家の駿府以来の施薬家で御宮付医師の山中療病院の屋敷があって,家伝の三聖不老丸は家康公持薬の誉を伝える。また,本陣入江家に伝わる蒸菓子麸和餅は御宮献備に常用された。そのほか,町内には門跡家来4・小人2・日光奉行下役人1・楽人1・諸職人6なども居住した。当町は早くから日光参詣堂者の止宿を行っていたが,寛政~文政年間頃には鉢石宿との間に堂者宿をめぐって争議が起こっている(県史近世6)。神社には小塚山に町持ちの愛宕社・天王社がある。寺院には畠山重忠の末子重慶阿闍梨の開基と伝えられ,もと妙道院末でのち輪王寺末となった天台宗瑞雲山竜蔵寺がある。慶応年間の「日光山森羅録」によれば,町の長さ2町55間・道幅5間,家数44・人数238。明治5年の戸数43。明治7年日光町の一部となり,同年日光町,同22年からは日光町日光の通称地名。同29年天理教教会創設,昭和10年類焼して志渡淵川左岸に移転,現在日光大教会として発展。明治31年日光警察署庁舎新設。同40年日光美術陳列館が豪壮な建築で開館したが大正末期の不況により廃館する。世帯・人口は,大正14年137・690(男336・女354),昭和20年218・人口901(男356・女545)。昭和29年日光市の町名となる。明治期以降著名人を泊めた神山旅館の敷地跡に,同52年中央公民館兼市立図書館,同53年日光消防本部庁舎が落成。同年の世帯260・人口876(男395・女481)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7041834