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那須藩
【なすはん】


旧国名:下野

(近世)江戸前期の藩名。那須郡那須(福原)に居所を置き,同地周辺を領有した小藩。慶長14年,那須周辺等において6,300石を知行する外様の那須資景が父資晴の遺跡を継ぎ,自分および一門の知行を合わせ,1万4,000石余を領有する諸侯に列したことにより,当藩は成立した。那須氏は,関東八家とよばれる鎌倉以来の名族であったが,戦国末期には烏山城に拠る那須資晴ら南那須衆と北那須衆に属する大田原・大関といった有力な譜代の国人衆との間に厳しい対立抗争が続けられ,豊臣秀吉の小田原の陣と奥羽仕置に際していち早く秀吉に参謁の礼をとった大田原・大関らに反して那須資晴はこれを拒み,秀吉はこの遅参に怒って資晴の所領を没収し,天正18年8月5日烏山城が接収された。「烏山八万石」(下野国誌)といわれる資晴は,佐良土(湯津上村)への退隠を余儀なくされたという。しかし,那須与一以来の名族を維持存続させようとする側近興野某や大関・大田原ら那須一族の懇請があってか,同年10月に秀吉は資晴の嫡子資景に那須郡内に5,000石の所領を与え,翌19年にもさらに5,000石を加増して那須家の再興が図られた。そして,江戸期に入ると,慶長5年に那須郡において300石,同7年に芳賀郡と陸奥国磐城郡のうちにおいて2,000石が加増された。また,同年には一族の高瀬弥六某に200石,大田原周防某に200石,那須八郎某に旧知を合わせて880石,大田原弥次郎某に旧知を合わせて440石が与えられ,これらの公知衆分も合わせた1万4,000石余がのちすべて那須郡に集められて,当藩の立藩となったのである。藩主那須資景は寛永元年隠居し,長男資重が家督を継いだが,同19年資重は没した。無嗣絶家のため除封されるべきところだが,父資景に那須郡において5,000石が与えられ,わずかに家名を保つのみとなり,当藩は一時廃藩となった。寛文4年,当時7,000石(那須郡内の5,000石と蔵米2,000俵)を知行していた那須資弥(資景の養子)がさらに5,000石を加えられ,また蔵米を知行地に改められ,那須郡内において1万2,000石を領有し,再び当藩が立藩された。資景は増山正利の実弟で,将軍家綱の生母増山氏の縁で再興されたといわれる。天和元年資弥は烏山に2万石で移封し,当藩は廃藩となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7042994