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鉢石町
【はついしまち】


旧国名:下野

(近世)江戸期~明治7年の町名。都賀郡のうち。「はちいしまち」ともいう。鳴虫山東北麓,大谷(だいや)川上流右岸に位置する。地名の由来は,「堂舎建立記」に「鉢ノ形ナル岩アリ,因テ名トス」と見える。文献上での鉢石の初見は,文治6年の「下野国二荒山鉢石星宮御鎮座伝記」。古くはヤブ村(晃山編年遺事),坂本と俗称された。永正6年「東路のつと」には,「坂本の人家は数をわかず続きて福地と見ゆ,坂本より京鎌倉の町有て市の如し」とあり,中世からの門前町としての様相がうかがえる。当て字で初石とも書き,元和6年「日光山領目録」に「社家門前,初石各居屋敷地子銭等悉以御赦免」と見える(県史近世6)。江戸期は日光門前東町の1町で,上鉢石町・中鉢石町・下鉢石町の3町からなる。なお,江戸初期は鉢石村と称し,正保元年日光街道鉢石宿が形成されてからのちは,鉢石町あるいは鉢石宿と称した。「日光道中宿村大概帳」には,「此宿之儀,往還宿々へ拘り候節は鉢石宿と相認め,地方へ附候節は鉢石村と相認め,日光惣町へ加り候節は鉢石町と相唱え来」と見え,「鉢石町書類目録」には,「当鉢石町之儀者,往古鉢石村,其後鉢石宿ト相唱ヘ東町中惣轄罷在候」と説明されている。日光神領。はじめ日光目代山口氏,寛政年間からは日光奉行の支配に所属。村高は,「慶安郷帳」では鉢石村と見え75石(畑のみ),「元禄郷帳」では鉢石町と見え168石余,「天保郷帳」では鉢石宿と見え176石余,「旧高旧領」でも鉢石宿と見え211石余。鉢石宿の概要を見ると,宿内の長さは東西5町余,各宿までの里程は今市宿へ2里,上野国細尾へ2里8町,天保14年の宿内人別985・家数227,本陣2軒は宿内の下鉢石町にあり,旅籠屋は19軒。宿建人馬25人・25疋で,人馬継問屋が宿内の中鉢石町に1か所あり,名主兼問屋1・年寄1・町代3・帳付1・馬指1・飛脚小遣2がいた。正徳元年に定められた駄賃・人足賃銭は,今市宿へは荷物1駄86文・乗掛荷人共86文・軽尻馬1疋58文・人足1人43文,細尾へは荷物1駄106文・乗掛荷人共106文・軽尻馬1疋67文・人足1人50文,日光坊中へは荷物1駄106文・乗掛荷人共106文・軽尻馬1疋67文・人足1人50文であった。宿内では1か月に3度ずつ市が立ったが,幕末期には正月12日の1度となった(日光道中宿村大概帳)。天保13年の書上によれば,当宿1年で人高1,928人・馬713匹の公用継立に加えて,清掃・祭礼など諸役に人足4,600人余,非常駈付に毎日人足44人を用立てている。当町(当宿)は高が定められていたが,日光門前のほかの町と同様地子銭は免除され,代わりに神域内外の清掃や祭典などの人足を負担した。これら課役の過重や参詣者の漸減による宿の困窮は,早くは元禄年間の道中奉行への救助歎願,あるいは寛政~文政年間頃の鉢石宿と御幸町との間に起こった旅人止宿・堂者宿に関する争論となって現れている(県史近世6)。文政3年「旅籠屋・堂者引・町相方御吟味書」には「止宿渡世人」として,鉢石町79名・御幸町25名の名が上げられている。「鉢石炊煙」と称された宿の景観は日光八景の1つであった。往還の中央を貫通する堀割には用水を流し,堀割の脇に駄馬を係留した。天保社参での将軍家慶の買上品の記録に,「鉢石宿田口屋源内方,松竹梅唐草模様吸物膳二十人前・うるみ色大し形食次・如輪杢小たんす・寿光皮文庫」,「鉢石宿名石堂藤四郎方,蝋石材工の肉入・筆建・小燭台・文鎮」,「鉢石町ゑび屋長蔵方,大岩ひば黄連しのぶ植附有之鉢物壱鉢」と見える(御番所日記)。二宮尊徳によって日光仕法が開始された嘉永6年の家数225・人数1,128,馬はなく,反別37町余,荒畑14町余,起返地なしで,幕末期の荒廃状況がうかがえる(全集)。また,慶応年間「日光山森羅録」によれば,家数210・人数955,馬なし(日光市史)。明治4年栃木県に所属。明治7年日光町の一部となる。なお,上鉢石町・中鉢石町・下鉢石町の各町は以後も日光町の通称地名として存続。




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「角川日本地名大辞典」
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