上田中
【かみだなか】

旧国名:上野
大間々扇状地の扇端西部に位置する。東部の石田川沿いに低湿水田地帯,西部に湧水が数か所ある低湿水田地帯が広がり,泥炭地を形成する。仁安3年6月20日の新田義重置文(正木文書/県史資料編5)に「たなか」と初見する。地内には原始・古代の遺跡が広範に分布し,特に石田川流域六供地内の微高地に縄文時代の遺物が多く分布する。「上毛古墳綜覧」によると,同地内に兵庫塚古墳(綿打村15号墳)をはじめ,10基を超える古墳群があったが,全部削平された。兵庫塚古墳は大正元年の発掘で,埴輪の馬具・五鈴鏡・玉類が出土した。8号墳は長慶天皇の御陵と伝承する。新義真言宗智山派田中山長慶寺は山城国宇治郡西京智積院末で,延応元年慶弁和尚の開基という(綿打村郷土誌)。寺縁起によれば,元弘年間に新田義重の四男義俊の五男五郎義清(田中)が当村に住し,住職に帰依して祖先新田政氏入道関了の霊を,字六供の地に祀り関明神と号したという。また,関明神は南朝の長慶天皇を祀り,長慶寺は文中2年剃髪した寛成親王(法号覚理法王)の建立といい,旧境内に長慶院(寛成親王)の墓陵があることから,寺号を長慶寺に改めたと伝える。一説に延応年間頃は小庵で,正平年間の創建ともいう。長慶寺は田中氏居館跡といわれ,その規模は150mの方形とみられる。田中五郎義清居館跡ともいう。同寺境内から嘉元元年紀銘ほか4面の板碑が出土,また貞治2年・永和2年の年紀を有する宝篋印塔が残る。他所からも14面の板碑が出土した。
【上田中村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【上田中(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7045049 |




