五十子
【いかっこ】

旧国名:武蔵
県北西部,利根(とね)川中流右岸の本庄台地東端に当たり,北は利根川,東は小山川に囲まれた地域に位置する。地名は,「五十日」を「いか」と読み(北武蔵名跡志),「いか」は洪水の起こりやすい平地の意という(地名誌)。五十子には新田三河守家継の居城があったと伝えるが,築造年代は不明(新編武蔵)。当地は鎌倉街道が通る交通の要衝にあり,室町期にはたびたび合戦があった。享徳年間上杉顕定と定正が古河公方と,文正元年古河成氏が上杉房顕と,文明9年長尾景春が上杉顕定と対戦した(新編武蔵)。世良田長楽寺より増国寺の住持となった松陰西堂は「松陰私語」を著し,五十子合戦の様子を書き残している。
【五十子(中世)】 戦国期に見える地名。
【五十子村(近世)】 江戸初期の村名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7047700 |




