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鉢形城
【はちがたじょう】


大里郡寄居(よりい)町大字鉢形にあった北武蔵最大の戦国期の平山城。国史跡。城跡は東西378m・南北755m・面積14万6,520m(^2)の規模をもつ。北面を荒川の絶壁(比高約50m),搦手の東面を深沢川の谷で仕切られ,大手は堤塘濠渠の構築で西の秩父方面(折原地区)に向けた天然の要害である。交通の要所で,平安末期以来,平将門・源経基・畠山重忠らが砦として利用したと伝える。今日の城跡は,文明年間,山内上杉の臣,長尾景春が修築を加え,その後,上杉家の持城(上杉顕定ら)として第1期の大改修が実施されてからのものと思われる(松蔭私語・太田道灌状)。文人墨客の来訪も多く,長享2年,京都相国寺の儒学僧万里集九は「梅花無尽蔵」のなかで「鉢形城壁鳥難窺」とこの堅固な要害の様子を記し,また,永正6年,連歌師柴屋軒宗長が白河への途次寄ったことが「東路の津登」に見える。戦国の内乱で上杉氏に代わって小田原北条氏が関東へ勢力を拡大するにつれ,地元の上杉家家老職(花園城主)の地位にあった藤田左衛門佐重利が北条氏康の三子乙千代(北条氏邦)をその婿に迎え,天神山(てんじんやま)城(長瀞(ながとろ)町)に居城させた。氏邦は永禄初年に鉢形の古城に入り,今日にいう本郭を荒川の断崖上に定め,南に二の郭・三の郭などの縄張りを行い,笹曲輪・御殿下曲輪・逸見曲輪・秩父曲輪・諏訪曲輪・外曲輪などを構築。各曲輪間は土塁・水濠・空濠で仕切られ,城門・やぐら・塀・兵粮蔵なども実戦本位に設けられたようで,尺木塀といわれる塀も,30cm間隔に立てられた材に横木を縄で縛った柵程度のものであったと推測される。戦国末期には外曲輪の西側の南北に鉄砲小路・新小路・殿原小路が続き,南側にはこれらに西から交わる栃木小路・鍛冶小路・連雀小路が,西の大手付近には寺町などの地名をもつ小路が縦横に整然とつくられ,小規模ながら城下町が造成されたと見られる(鉢形城絵図/新田家文書・新編武蔵)。現在もこれらの古道や良秀寺・吉祥寺・城士寺などの古寺が一部残され,兵粮蔵や金蔵跡と伝える所とともに往時をしのばせている。鉢形城は北条家の分国を守る北関東の拠点で,高松城(皆野町)・天神山城(長瀞町)・花園城・用土城(寄居町)・八幡山城(児玉町)などの支城をもっていた。天正18年,配下の沼田城(群馬県沼田市)の一件に端を発する豊臣秀吉の小田原城攻めの際,前田利家・上杉景勝・本多忠勝と将軍浅野長政らの軍勢(4万5,000人)に四方から攻撃され,城の南方車山(224m)から大手方面への大筒石火矢攻略で大打撃を受け,籠城の将兵3,500人は6月14日約1か月で城を明け渡し,廃城となった。現在,水濠・空濠・土塁などがナラ・クヌギ林のなかに比較的よく保存されている(埼玉の館城跡ほか)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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