畔蒜荘
【あひるのしょう】

旧国名:上総
(中世)鎌倉期から見える荘園名。上総国のうち。古代畔蒜郡のほぼ全域が荘園化したものと考えられ,広大な荘域の北部は畔蒜北荘,南部は畔蒜南荘とも呼ばれた。「吾妻鏡」文治2年6月11日条に,「熊野別当(所脱カ)知行上総国畔蒜庄也,而地頭職者,二品令避付于彼人給,於其地下者,上総介・和田太郎義盛引募云処」と見える。熊野別当の知行する熊野山領で,地頭職も源頼朝から熊野別当に安堵されたが,「地下」は上総介足利義兼と和田義盛の両名が引き募っていたと伝える。ついで,寛元元年7月28日の将軍藤原頼経家政所下文では,「熊野山領相模国愛甲庄・上総国畔蒜南北庄領主職・備中国穂太庄預所并下司職」が,藤原(山内首藤)清俊に譲与されている(毛利文書/県史料県外)。当荘領主職を含むこれらの所領は,清俊が母鶴熊から譲られた所領であるが,3か所とも熊野山領であるから,鶴熊は熊野別当の縁につながる者とも考えられる。前掲「吾妻鏡」では地頭職は熊野別当の知行とするが,「吾妻鏡」の地の文は必ずしも一級史料とはいいがたい点を考慮すれば,熊野別当が知行したのは当荘領主職で,「地下」を引き募ったとされる足利義兼・和田義盛両名が,当荘地頭職を知行していたのではなかろうか。この史料は当荘が南北に分かれていたことを示しているが,足利義兼・和田義盛が南北を分掌していたとも考えられる。その後,弘安6年7月日付北条時宗申文・同年7月16日付関東下知状により,「上総国畔蒜南庄内亀山郷」が将軍家御祈祷所として,北条時宗から鎌倉円覚寺に寄進されていたことが知られる(円覚寺文書/県史料県外)。なお応安3年2月27日の円覚寺文書目録により,弘安6年6月8日付北条時宗寄進状の存在も確認される(円覚寺文書/相州古文書2)。これらの史料から畔蒜南荘内亀山郷が,弘安6年以前に北条氏領となっていたことがわかる。これは建保元年の和田合戦後,和田義盛の所領であった畔蒜南荘が没収されたことに由来するとも考えられるが,明らかではない。鎌倉期には,円覚寺領となった亀山郷のほかに,当荘内の郷村として平胤清なる者の知行地であった永吉郷と鹿田村が見える。正中2年3月17日の平胤連田畠打渡状案(金沢文庫文書/県史料県外)によれば,正和3年,胤連の親父胤清は「同庄(畔蒜庄)内鹿田村」の田代を年季売りとしたが,年季のあける以前に胤清は同所を他人に永代売却してしまった。そこで,年季売りの買手と推定される「寺家」は胤清の二重売却を幕府に訴え,幕府は元応元年10月25日付下知状により,胤清に対し正和5年以後の損物の弁済を命じる裁許を下した。その後胤清が死亡したため,その遺領を相続した子息の胤朝・胤連兄弟が親父の負債を引きつぎ,両人知行の田畠の一部を寺家に一定期間渡すことになった。この平胤連田畠打渡状は,弟胤連が知行する「上総国畔蒜庄内永吉郷」の「田三町五反・畠六反内屋敷一宇」を14年14作の期限つきで「寺家」に打ち渡したものである。ここに見える「寺家」については明らかではないが,「金沢文庫文書」に含まれる史料であるから,あるいは武蔵国金沢称名寺のことであろうか。鎌倉幕府滅亡後も,建武4年7月10日の足利直義御教書により「上総国畔蒜庄内亀山郷」は円覚寺領として安堵されており,また円覚寺領諸荘園に対する役夫工米以下の諸役賦課を免除した永和3年12月11日付官宣旨にも「上総国畔蒜南庄内亀山郷」が見えている(円覚寺文書/県史料県外)。さらに応永26年12月17日付鎌倉公方足利持氏御教書でも,「上総国畔蒜庄内亀山郷并沼田寺」が円覚寺領として安堵されており(同前),室町初期まで当荘内亀山郷が円覚寺領として存続したことが確認されるが,この頃以後,同寺領としての実質は失われていったものと推定される。なお沼田寺は,現在の君津市怒田の大日堂にあたる。応永元年7月13日の将軍足利義満御教書には,佐々木治部少輔高詮に当荘が返付されたことが見え(佐々木文書/大日料7-1),南北朝末期~室町初期には佐々木高詮も当荘に知行権を有していたことが知られる。また同史料によれば,この頃当荘年貢のうち毎月3,000疋が禁裏御服料に充てられている。なお,「上総国畔蒜北庄大窪寺」に寄進されていた応永23年11月21日在銘の梵鐘(栃木県足利市長林寺蔵)にも,「彼庄(畔蒜北庄)者禁裏御祈(䉼カ)所」であったことと,佐々木氏が関与していたことが語られている(県史料金石2)。梵鐘の寄進を受けた大窪寺の所在地として畔蒜北荘の名が見えるが,同荘については,康永元年8月3日の覚園寺文書目録にも,「一通 角田修理進寄進状〈上総国畔蒜北庄野□内田畠事〉」とあり,角田修理進なる者が「畔蒜北荘野□」の地を覚園寺に寄進したことが知られる(覚園寺文書/神奈川県史資料編3)。「野□」は,当荘の最北部に位置する永吉郷の,南隣に現存する野里にあたるかとも推定されるが確証はない。角田修理進は,上総権介広常の弟相馬常清の孫親常・助常兄弟が角田を苗字としているので,その一流と考えられる(神代本千葉系図/房総叢書)。戦国期に入っても当荘が禁裏御服料所であったことが,「実隆公記」永正5年2月17日条・同7年5月7日条により確認される。同書永正7年5月7日条には,この日三条西実隆が連歌師柴屋軒宗長の書状に対する返事を認めたことを記すが,宗長の書状は,御服料所である当荘が,この頃現地の摩利谷某のため押領されており,摩利谷某の知音の者である武蔵国住人三田弾正に充てて,摩利谷某の押領をやめさせることを命じる実隆の奉書を発給するよう依頼したものである。室町初期には,応永18年9月20日付畔蒜荘横田郷検田帳案(覚園寺所蔵戌神将胎内文書/神奈川県史資料編3)・同23年9月2日付畔蒜荘横田郷検田帳(同前/県史料県外)により,当荘内に横田郷の存在したことが知られる。「畔蒜庄横田郷内〈こんとう三郎跡田畠地検目録〉」と見えるので,同郷は近藤三郎なる者の闕所地であったと考えられるが,詳細は不明。また,海晏寺(東京都品川区)所蔵雲板の応永22年12月吉日付銘に,「上総州畔蒜庄上郡葛原刀村」とあり(県史料金石2),当荘内に上郡・葛原刀村の存したことが知られるが,比定地は未詳。戦国期には,山神社所蔵の天文22年菊月29日の棟札に,「上総州畔蒜庄亀山郷村惣社山神宮 当地頭本吉与七郎 奉再興所也」とあり,当荘亀山郷内に
(ささ)村の存在が知られる(県史料金石1)。
村は惣社山神宮(現山神社)が現存する君津市笹に比定される。また,年月日未詳の真如寺鐘銘(上総国誌所載史料/荘園志料下)に,「上総国望陀郡畔蒜荘真里谷郷,前永平寺兼最乗天寧山真如禅寺」とあり,前掲「実隆公記」の記事に摩利谷某の名が見えることとあわせて,真里谷郷も当荘に属したことがわかる。これらから当荘の荘域は,亀山郷・
村・沼田寺の存在した現在の君津市東部および南東部から,真里谷郷を含む木更津市東部,さらに永吉郷・横田郷の所在した袖ケ浦市南東部にかけての一帯に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7052772 |