北郡
【きたのぐん】

旧国名:安房
(中世~近世)安房国の郡名。北之郡とも書く。ほぼ,古代の平群(へぐり)郡域を指す呼称で,鎌倉期から江戸初期まで使用された。平群郡は,平安末期に中世的郡郷制の形成とともにその実を失い,郡域南部は新熊野社領群房荘に含まれ,南西部は多々良荘となった。「吾妻鏡」治承4年8月29日条には,石橋山の合戦に敗れた源頼朝が,海路,「安房国平北郡獵嶋」に着いたとし,同9月3日条には,この日,「平北郡」を発って,上総介広常の居所に赴いたと見える。平北郡は平群郡北郷のことで,荘園化した郡域南部に対して,北部が国衙領の一単位となったものと考えられる。北郡は平北郡の略称で,中世では一般にこれが通用した。伝承によれば,鎌倉幕府の成立後,源頼朝の安房平定に協力した安西景益が平群郡の郡司に補任され,勝山城(現鋸南(きよなん)町下佐久間)に拠ったというが(関八州古戦録・金丸家系累代鑑・地理志料など),安西氏は本来,旧安房郡域の安西郷が本拠と思われる。確実な史料としては,鎌倉中期の宝治元年6月23日付将軍頼嗣袖判下文に「安房国北郡」とあり(二階堂文書/鎌遺6846),当郡の地頭職は,もと大河戸大隅前司(重澄)の管掌するところであったが,この時,二階堂左衛門尉行氏に充行われている。大河戸重澄は相模国の三浦氏一族で,三浦義村の弟,宝治の乱に連座して当郡地頭職を没収された。また,延慶本「平家物語」などには,三浦義明の嫡男杉本義宗が,平安末期の長寛元年に長狭郡の長狭氏と合戦し,討死したとするので,当時,すでに北郡は三浦一族の所領であったとも考えられる。こののち,二階堂氏の北郡地頭職は,弘安8年の霜月騒動で二階堂氏が滅びたため,没官されて,北条氏得宗家の手に帰したと推定される。二階堂氏が具体的に領有し,子女に譲与したのは,下尺間村・本名村(現鋸南町下佐久間・元名)・不入計(現富山町高崎)などで(二階堂文書),旧平群郡域の北部に集中していることからすれば,元来,旧安房郡域に本拠をもつ安西氏は,鎌倉期には実際には,旧平群郡域の南部にしか勢力を及ぼし得なかったのであろう。安西氏が勝山城に居住したのは,南北朝期以降のことと思われる。南北朝期の郡内の動向はまったく不詳であるが,北条氏滅亡後は安西氏の勢力が,漸次,旧平群郡域全域に及び,これに伴って,北郡の呼称の示す範囲も拡大し,室町末期には群房荘の荘域の大部分(現三芳村・館山市の一部)もまた安西氏の支配下となって北郡に組み込まれたものと想定される。応永~永享年間に旧安房郡域を支配する神余氏の家臣山下左衛門尉定包(兼)が主君を弑殺して勢力を得たが,安西氏は旧朝夷(あさひな)郡域の豪族丸氏と図って,これを挾撃した。諸書によれば,戦国大名里見氏の祖里見義実が安房に入国したのはこの頃で,一時,安西氏の許に寄寓して,のちにこれを滅ぼしたとも,義実は丸氏らに擁立されて安西氏を降したともいうが,事実は判然としない。ただし,15世紀半ば以降,里見氏の安房統一の過程で安西氏を降し,当郡を支配下に置いたことは認められる。北郡の称は,慶長年間の「里見家分限帳」や慶長2年・元和4年の検地帳,慶長11年7月3日付里見義忠充行状などにも見え,近世には正式の郡名として定着していた(県史料諸家)。しかし,春日大社所蔵釣灯籠の天正13年3月28日付銘文・同文禄2年12月8日付銘文などに「安房国平郡平岡村」と見え(県史料金石2),戦国末期には平郡の称も使用され始めており,やがて,北郡の称は廃されて,平郡と改められた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7054153 |