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九十九里浜
【くじゅうくりはま】


房総半島北東部,太平洋に面し,北の海上郡飯岡町の刑部(ぎようぶ)岬から南の夷隅郡岬町の太東(たいとう)崎に至る弓なりの砂浜海岸。長さ約56km。沿岸は北から飯岡町・旭市・八日市場市・野栄(のさか)町・光町・横芝町・蓮沼村・成東(なるとう)町・九十九里町・大網白里町・白子町・長生村・一宮町・岬町の14市町村に属する。遠浅の海岸の沖合いに海岸線と並行に発達するサンドバー(砂州)が陸化してできた沖積世以降の隆起海岸で,縄文早期ごろの海岸線は現在の下総台地縁辺部にあったと考えられている。その後一時期を除いては海岸線は前進し,元禄16年~天保13年の193年間に約350m,年平均2m強の割合で前進したことが古文書などから裏づけられている(九十九里町誌)。海岸線は屈曲に乏しく単調ではあるが,沖合いから波頭の打ち寄せる景観は雄大であり,防風と防砂を兼ねた松林を控えた砂浜には砂丘特有の風紋が見られる。昭和10年,沿岸一帯は九十九里県立自然公園に指定され,以後海水浴場やレクリエーション地として道路整備や観光開発が進んだ。「九十九里」の呼称は近世初期からの使用と考えられ,慶長4年5月9日付の「廊之坊諸国旦那帳」(熊野那智大社文書)に「九十九里」と見えるのが初見。また,明和8年の中村太郎右衛門家文書に「我等九十九里海辺通り」と見える。地名の由来は諸説あるが,源頼朝の命で1里ごとに矢を立てたところ99本に達したという伝説が有名で,「矢指が浦」の異称がある。「房総志料」巻6山辺郡の条所引の「房総沿海志」は「此地を凡そ九十九里浦と云ふは,案ずるに古へは六町を以て一里とす。今の里程十五里,古程を以て計る時,九十里となる。百里に幾(ちか)しといふ事にて九十九里の名あり」と説く。同様に沿岸の白里(大網白里町)や白潟(白子町)の「白」も「百引く一」の意味で,「九十九里」を意味するといわれる。九十九里浜の地引網によるイワシ漁は,江戸期の佐藤信季の「漁村維持法」(安永6年)に,「予あまねく四海を遊歴して地曳網に働く者を見ること多し,然れども諸国の漁事,九十九里の地曵に如(し)くものあることなし」と評され,網数は200余張(定)に達していた。九十九里浜の地引網の起源は,戦国末期の弘治元年,紀州漁民によって伝えられたという(房総水産図誌)。その後,江戸期の紀州漁民の進出,封建領主の保護,江戸や東浦賀の干鰯(ほしか)問屋の資本投下などによって発達を遂げた。明治期には,揚繰網漁法が発明され,イワシ漁の中心となったが,第2次大戦後不漁期を迎え,イワシ漁は衰微している。現在,九十九里浜には,北から飯岡漁港・横芝屋形(栗山川)漁港・片貝漁港・太東漁港の4つの漁港が建設され,沿岸漁業が行われている。しかし,砂浜における地引網は,ほとんどその姿を消し,観光地引網として残るにすぎない。沿岸の集落は,海岸に沿った砂堆上に,漁業と関連した納屋集落として立地している。これらの集落名は,内陸部にある岡集落の名前に納屋・浜・下・岸といった語尾をつけたものが多い。たとえば真亀納屋(九十九里町)・椎名内浜(旭市)などがその例である。これは,イワシ漁業の盛衰や海岸線の前進に伴い,岡集落から納屋の置かれた海岸部への人口流出があったためといわれ,岡集落と納屋集落の中間に新田集落の存在する例もある。大体の分布としては,浜地名は成東町の木戸川以北に多く,納屋地名は木戸川以南に多く見られる。なお,納屋は和歌山県有田沿岸にも見られるが,ここでは納屋は漁家の意が強く,臨海村の地名には使用されていない。また,九十九里浜は文学者たちとのゆかりが深く,成東町出身の伊藤左千夫に「人の住む国辺を出でて白波が大地両分けしはてに来にけり」ほかの絶唱があり,片貝(九十九里町)を訪れた徳富蘆花や竹久夢二,真亀納屋の海辺で療養する夫人智恵子を訪れた高村光太郎,一宮で一夏を過ごした芥川竜之介などがおり,それぞれの作品で景観が描写されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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