護持院ケ原
【ごじいんがはら】

江戸期の通称地名。現行の千代田区神田錦町1~3丁目,神田橋から一ツ橋までのあたり。元禄元年11月4日,徳川綱吉が隆光の願いを入れてそれまで柳原(やなぎわら)にあった知足院を当地に移転し,筑波山護持院元禄寺と改称した。しかし享保2年の火災で焼失し,寺は大塚に移転。跡地は周辺の武家地跡を合わせて火除地となり,護持院原と呼ばれ,一番原,二番原,三番原があった。一番原は護持院跡,二番原は松平采女正屋敷跡で,同地は貞享年間は土屋甲斐・三浦壱岐守の屋敷があった。三番原は天和年間は中山勘解由・加藤伊織・彦坂壱岐の屋敷があったが,元禄年間から明地となっていた。その後慶応年間まで一番原を除いて,徐々に武家地となっていった。天保年間頃は周囲を柵で囲み,中には茶店があり,散策場となっていた。弘化3年森鷗外の小説にもなった護持院ケ原の仇討があった。幕末,騎兵当番所・開成所・御固米御蔵などが置かれた。維新以後は陸軍兵学寮出張所・大学南校・外国語学校地震観測所・高等商業学校があった(砂子・東京地理志料・画報)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7060511 |




