円覚寺
【えんがくじ】
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鎌倉市山ノ内にある寺。臨済宗円覚寺派大本山。山号は瑞鹿山。本尊は盧舎那仏。鎌倉五山第2位の禅刹で正しくは円覚興聖禅寺と号す。開山は来朝僧無学祖元(仏光国師)で,開基檀越は執権北条時宗。弘安元年,建長寺住持の蘭渓道隆が入寂した後,時宗は中国より建長寺住持にふさわしい名僧の招請を計画,無及徳詮・宗英の2名を宋に送った(円覚寺文書/県史資2‐875)。翌年臨済宗破庵派の法脈を継ぐ無学が来朝して建長寺に入寺。しかし,同4年の蒙古襲来(弘安の役)ののちに帰国を希望したため,これを抑留優遇する目的と弘安の役に際しての日元両軍の戦没者慰霊のため当寺を創建(仏光国師語録・鎌倉市史社寺編)。翌年の釈迦成道日の12月8日に無学を開山に迎えて開堂供養を行う(鎌倉五山記)。寺名の由来は,弘安元年時宗が新寺建立の土地を物色中,蘭渓道隆が当寺の寺地を選定,起工して土地を掘ったところ石櫃が発見され,中から禅宗寺院の読経に用いられる円覚経が出てきたこと(鹿山略記・建長寺年代記),また先の開堂供養で無学が説法した時,白鹿の群れが聴聞したという瑞祥が瑞鹿山の山号の由来とする(元亨釈書)。弘安6年7月,時宗は幕府の祈願所とし,尾張国富田荘・富吉加納と上総国畔蒜(あびる)南荘内亀山郷の3か所を寄進(円覚寺文書/県史資2‐952・953),これが当寺寺領の初見。創建時の規模および寺中の費用は寺内に僧侶100人,事務雑役にあたる行者(あんじや)・人工(にんく)100人など合計268人を数え,寺用米1,374石7斗と年貢銭1,745貫文が納入されており,僧侶以下1日米1升が支給され,その他仏供料75石余・味噌料48石・酢酒塩料36石などであった(同前960・961)。弘安7年4月4日,時宗が死没,境内に廟所の仏日庵が成立すると,北条氏の菩提寺的性格を強め,次いで執権となった貞時が応長元年に没すると廟所無畏堂が仏日庵内に設けられ,一層北条得宗家の私寺としての性格を強めた(鎌倉市史社寺編)。弘安10年12月・正応2年12月と2度火災にあい(北条九代記・鎌倉年代記裏書),永仁元年4月13日の大地震(北条九代記)にも被害をうけたと推定されるが,鎌倉末期を通じて伽藍の復興がはかられ,同時に北条得宗家一族の供養料や伽藍造営料として寺領の寄進も相次ぎ,当寺敷地・同門前以下その所領は相模・尾張・出羽・越前・播磨など8か国に及ぶ(鎌倉市史社寺編)。境内の諸堂宇は,弘安5年の開堂法要時に仏殿・僧堂等が完成し(仏光国師語録),同6~7年頃には舎利殿(祥勝院)が建立され,正安3年には物部国光作の鎌倉最大の梵鐘が鋳造されるなど,順次整備された。その銘文によると当時(正安年中頃)の僧侶は250人にも達し,更に元亨3年の貞時13回忌法要に際して,前年より法堂の造営が行われ(円覚寺文書/県史資2‐2364),当寺僧衆350人が参加(同前),寺中には1,000人近い僧俗が居住していたと推定される(鎌倉市史社寺編)。これより先の永仁2年には,執権貞時より12か条の禁制が下され,また乾元2年には当寺僧衆の定員を200人と定め,行者・人工の帯刀を禁じる制符を下すなど禅院内の風紀を正している(円覚寺文書/県史資2‐1151・1342)。鎌倉期の住持は,2世の大休正念以下,鏡堂覚円・一山一寧・清拙正澄などの来朝僧や円爾の門弟で荘厳門派を開いた南山士雲・夢窓疎石などが入寺(扶桑五山記)。建長寺とともに鎌倉禅苑の双璧として発展する。元弘3年鎌倉幕府が倒れ,北条氏が滅亡したことにより,最大の保護者を失い,一時,建武新政府によって寺領の一部を没収されたが,その後新政府・足利尊氏から安堵された(鎌倉市史社寺編,円覚寺文書/県史資3上‐3173・3177・3193)。弘安9年,開山祖元は建長寺で示寂し,祖塔(常照塔)は建長寺に築かれ,正続院と称したが,建武2年当寺舎利殿の地に移し開山塔正続院とした。南北朝期の伽藍は,貞和年中以前の作成と推定される「古伽藍図」によると,宋朝風禅刹の伽藍配置で,中国の径山(きんざん)興聖万寿禅寺を模したと伝える(鎌倉市史社寺編)。暦応5年4月23日には京都天竜寺と並んで五山の第2位とされ(扶桑五山記),以後数度の改定を経て至徳3年7月10日には,鎌倉五山の第2位となる(円覚寺文書/県史資3上‐5011)。南北朝期には戦乱による寺領の不知行もみられたが,鎌倉公方足利氏を中心とした上級武士の保護が続き,30世大喜法忻は駿河守護今川範国の兄で駿河国葉梨荘上郷・同中郷地頭職や同国安倍郡下島郷地頭職など4か所の寺領が寄せられており(鎌倉市史社寺編,同前4065・4605),室町初期の寺領は相模・武蔵・尾張・常陸など10か国に所在している。また応安7年11月23日には副寺寮への放火から伽藍のほとんどが烏有に帰し(花営三代記・空華日工集),永和2年,伽藍復興の造営料として関東8か国の棟別銭や越後国加地荘があてられ(円覚寺文書/県史資3上‐4762~4766),応永8年2月晦日の火災(鹿山略記)にも伊豆国府中の関銭があてられた(円覚寺文書/県史資3上‐5382)。南北朝期から室町初期にかけて,初期幻住派を代表する大拙祖能,最後の来朝僧となる東陵永璵などが入寺(扶桑五山記),それぞれが寺内に隠居所・葬所としての塔頭を営み,その数は50か院以上に及ぶ(鎌倉市史社寺編)。室町中期以降は,しだいに遠隔地からの年貢が納まらなくなり,鎌倉公方の支配する近隣の寺領の保持に努めるが,全体としては減少していった(同前)。戦国期,小田原北条氏の時代には寺領の記録は伝わらず,氏綱が永正2年に当寺を鎌倉3か寺(他は建長・東慶寺)の1つとして諸公事免除の特権を与えている(鎌倉市史社寺編,円覚寺文書/県史資3下‐6515)。天正19年,徳川家康が関東に入国,この時寺領として山内分113貫210文,極楽寺分31貫620文の地を認められており,江戸期へ継承(記略・寛文朱印留)。江戸初期には12か院の塔頭があり,末寺以下の門派寺院は86か寺で,天明6年には塔頭23か院と末寺298か寺を有した(本末帳集成)。江戸初期に密参口訣を重んじる幻住派の禅風が流入したが,江戸中期には誠拙周樗が入寺し,京都花園妙心寺系の古月派の禅が隆盛となった。明治期には今北洪川が入り,白隠派の禅を唱え,在家信者を中心とした居士禅が盛んとなった。明治期から現在まで居士林を中心として在家者の参禅が多い。関東大震災では,舎利殿をはじめ塔頭もほとんどが倒壊した。今日までに総門・山門・方丈・舎利殿などが復興し,昭和39年,仏殿は広く勧募により再建。寺蔵の文化財は国宝など多数あり,毎年11月初旬の休日をはさんだ3日間,宝物の風入れが行われる。現在,12院の山内塔頭があり,県下の64か寺を中心に全国で210か寺の末寺を持つ。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7065968 |