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覚園寺
【かくおんじ】


鎌倉市二階堂にある寺。真言宗泉涌寺派。鷲峰山真言院と号する。本尊は薬師如来。鎌倉期の建保6年,執権北条義時が薬師如来を安置する大倉薬師堂を建立したことに始まる(吾妻鏡)。寛元元年2月と建長3年10月に焼失するが弘長3年再建(同前)。永仁4年執権北条貞時が蒙古軍を退散するために大倉薬師堂を改めて当寺を建立。開山を智海心慧とした(鎌倉市史社寺編)。心慧は別に道照ともいい,京都泉涌寺の憲静に従って律を受け,密も兼学。また忍性(極楽寺開山)から戒を授かった(律苑僧宝伝/仏教全書105)。鎌倉期の寺領は,伊予国新居西条荘の得重など4か村。塔頭持宝院領として武蔵国橘樹郡金河村・河満村の小林郷。蓮華院領として副泉・越中国般若野荘の三谷寺・上総国畔蒜北荘の田地等が見られる(鎌倉市史史料編1)。元弘3年後醍醐天皇の勅願所とされ(覚園寺文書/県史資2-3135),建武元年新居西条荘を安堵された(同前3上‐3181)。建武4年2月の火災で堂宇をことごとく失った(同前3350)が,北朝の後光厳天皇が靫負(ゆげい)(衛門)尉100人分の成功(任官料)を寄進(覚園寺文書/県史資3上‐3607)。延元元年11月には足利直義が祈祷を命じており,以後足利氏の祈願所となる(同前3303)。貞和4年当寺住持朴艾(ぼくがい)思淳の願いにより制札が出された(同前3996)。これより後制札の下賜と足利氏からの寺領の寄進が続く(同前4170・4587・4167・4173)。朴艾思淳は,この頃年間仏事を定めた月課年課の記を著し古式仏事を復興している(同前5381)。延文3年11月火災にあい(同前4346),応永年間復興。これに先がけ応永4年7月修造料所として鎌倉公方足利氏満より竹沢兵庫助入道邸跡を寄進された。同16年頃には開山塔の泉竜院も復興していたと思われ,当寺評定衆が塔頭料を寄進(覚園寺文書/県史資3上‐5412)。その後鎌倉御所の衰退に伴い寺運も衰えた。戦国期小田原北条氏より保護を受け,天文3年4月北条氏綱が当寺の諸役免除を許可し,竹木の伐採を禁止(相文/同前3下‐6657),同12年4月には北条氏が補修の勧進を行った(覚園寺文書/同前6774)。また古河公方足利義氏は永禄7年山内伐木を禁じ(同前7415),同10年5月下総国古河内に3貫文の地を寄進(同前7540)。天正19年には徳川家康より朱印地7貫100文をあてがわれ,江戸期に継承(記略・寛文朱印留)。京都泉涌寺を本寺とし大楽寺・理智光寺の末寺を擁した(本末帳集成・新編相模)。江戸初期一時荒廃。元禄の初め再興したが,同16年11月22日の大地震でも被害を受け,宝永元年再興に着手。当時すでに江戸にも信者をもち江戸檜物町の鈴木氏は修理費100疋を寄進している。文政13年10月火災があり荒廃が甚しくなった(以上鎌倉市史社寺編)。天保14年二階堂村の渋谷文司が願主となり本尊を修理し客殿を再建(鎌倉市史史料編1)。明治に入り,鐘楼・山門等を建長寺に売却。山門は現在正統庵に残る(鎌倉市史社寺編)。明治2年庫院を焼失。関東大震災では諸堂が倒壊したが,昭和26年薬師堂の修理を経て現在に至る。境内(国史跡)には百八やぐらがあり,寺宝には国重文など多数ある。年中行事の黒地蔵(火焚地蔵)四万六千日縁日は8月10日に行われ,前夜から参詣者が多くにぎわいをみせる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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