建長寺
【けんちょうじ】

鎌倉市山ノ内にある寺。臨済宗建長寺派大本山。山号は巨福(こぶく)山。本尊は地蔵菩薩。鎌倉五山第1位の禅刹で,正しくは建長興国禅寺と号する。寺名は建長年間に開創されたことに,山号は寺地とされた巨福呂(小袋)坂の地名にちなむ。開創以前の当地周辺は地獄谷とも呼ばれ罪人の処刑場であった。地蔵菩薩を本尊とするのは,同地に伽羅陀山心平寺(現廃寺)という寺の地蔵堂が所在したことによる(鎌倉市史社寺編)。当寺の造立開始年代は,「聖一国師年譜」などの建長元年説と「吾妻鏡」による建長3年説の2説があるが,落慶法要は「吾妻鏡」建長5年11月5日条に,常楽寺(鎌倉市大船)にいた来朝僧蘭渓道隆を迎えて行われたとある。当寺は来朝僧蘭渓が開山として入寺したことから,わが国初の本格的宋朝風純粋禅の禅刹となった。開創時の伽藍造営は,建長7年に梵鐘の鋳造が行われ,遅くとも建治年中までに僧堂・衆寮以下の伽藍が完成していた(大覚禅師語録)。しかし,永仁元年の大地震で諸堂の倒壊炎上を招き(建長寺年代記),「一山国師語録」によるとこの復興が徳治年中頃まで続いた。正和4年にも再び火災にあうが(北条九代記),翌年から執権北条高時により伽藍の再建がはかられ,正中2年にはその費用捻出のための貿易船「建長寺船」が中国元朝に派遣され,再建は南北朝期の貞治年中まで30数年に及んでいる(鎌倉市史社寺編)。鎌倉末期当寺に起居する人員について,元亨3年に行われた北条貞時13回忌の法要に当寺住僧388人が参加(円覚寺文書/県史資2‐2364),寺内の事務雑役等にあたる行者(あんじや)・人工(にんく)を加えた総数は1,000人近くになっていたと推定(鎌倉市史社寺編)。元弘元年,京都東福寺の伽藍再建を目的として書写された当寺「伽藍指図」によれば,宋朝風の伽藍配置をとり,中国五山第1位の径山(きんざん)興聖万寿禅寺を模したものと伝える(建長興国寺碑文/鎌倉志)。当寺住持は,一宗一派の独占を避けて,諸方の優秀な人材を広く集める十方住持制が採用された。そのため開山蘭渓以後も,来朝僧の無学祖元(円覚寺開山)・兀庵普寧・一山一寧・清拙正澄・東明慧日や京都花園妙心寺開山の関山慧玄,夢窓疎石の師である高峰顕日,足利義満の帰依をうけた義堂周信のほか,室町前期の五山文学の担い手であった中巌円月・絶海中津・古剣妙快らが住持に就き(扶桑五山記),鎌倉末期から室町前期にかけて隆盛を極めた鎌倉禅宗界の中心となった。「無象和尚行状記」には正安元年に浄智寺が五山に列せられており,当寺もこの頃までに五山の寺格が与えられていたと推定され(今枝愛真:中世禅宗史の研究),南北朝期の暦応4年には京都南禅寺とともに五山の第1位とされ,以後康永元年と至徳3年の2回の位次改定においてもこの寺格を保っている(扶桑五山記,円覚寺文書/県史資3上‐5011)。中世期の寺領は,史料の焼失・散逸等で当寺関係のものは未詳だが,開山蘭渓の塔所であった西来庵の所領として高座(こうざ)郡懐島村に13貫950文,鎌倉郡布施村・糟屋荘沼部郷などをもち(西来庵文書/県史資3下‐6067・6245・6264),また無学祖元の塔所であった正続庵(のちに正続院と改称され円覚寺へ移転)には,鎌倉末期に丹波国成松保や当寺門前が寺領とされ常陸・武蔵両国にも所領をもつことが知られる(鎌倉市史社寺編)。応安6年には前記西来庵が火災にあっているが(南方紀伝),室町期の塔頭は,ほかに向上庵・禅居庵・正統庵など49院を数える(鎌倉五山記)。建長寺本院は応永21年12月28日に大火にあい,本堂・方丈などのほとんどの伽藍を焼失し,さらに同33年には第4回目の火災にあっている(鎌倉大日記・塔寺長帳)。永享の乱以降鎌倉は衰微し,鎌倉の禅宗界も同様であったが,戦国期には玉隠英璵(宗献大光禅師)が入寺し,五山文学を復興させ,戦国期末から江戸初期にかけて足利学校の再興に尽力した竜派禅珠が住持となり,密参口訣を重視する幻住派の形式的な禅を導入した。戦国期,小田原北条氏支配の寺領としては,天正19年の「建長寺朱印領配分帳案」に101貫文余で,同年11月には家康より95貫900文余の朱印地を受け(記略・寛文朱印留),江戸期には582か寺(山内塔頭を含む)を擁する本山として位置づけられる(寛永年間本末帳)。江戸中期になると,古月禅材に参学した海門元東が京都花園妙心寺系古月派の法流を伝える。明治13年,文国元柱が住持に就き,同17年貫道周一が初代管長に就任するにおよんで,妙心寺系白隠派の実践を重視し,参禅を第一とする禅風が導入された。現在,県下の120か寺を最高に全国で405か寺の末寺を持つ。寺蔵の文化財は3件の国宝ほか,多数の国・県重文をもつ。また江戸初期作の庭園は国史跡・名勝で,仏殿などの国重文があり,中でも仏殿・唐門は江戸初期に沢庵宗彭が,3代将軍徳川家光に頼んで駿河国久能山から移建したもの。寺の背後にある半僧坊は,静岡県奥山方広寺(臨済宗方広寺派大本山)から分座勧請したもので,火防に霊験があるとされる。西来庵の裏には開山卵塔とともに無学祖元(仏光国師)の卵塔,同庵の前には織田有楽斎,寺背には河村瑞賢の墓がある。なお毎年11月初旬の休日をはさんだ3日間,寺蔵什物の風入れが行われて多数の拝観者を集める。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7066795 |