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国分寺
【こくぶんじ】


海老名(えびな)市国分にある寺。高野山真言宗。東光山医王院と号する。本尊は薬師如来。もとは聖武天皇の詔勅によって諸国に建立された国分寺の1つ。当国分寺址は,昭和40・41年の2度にわたって発掘調査が行われ,方3町の大規模な国分寺であったことが明らかにされた。出土の創建瓦は単弁5葉蓮帯文鐙瓦と均正唐草文宇瓦からなり,奈良末期から平安初期に比定。当寺はその後弘仁10年の2月と8月に2度火災にかかり(日本逸史),さらに元慶3年9月の地震で金色薬師像1躰・脇侍2躰を損傷,のち失火によって焼亡,同5年10月に改造を請願した。また,この地震で,貞観15年7月28日国分尼寺となっていた漢河寺が破損,旧尼寺をもって国分尼寺となすことが同時に許されている(三代実録)。平安末期当国分寺は,山城成勝寺建立の10年余りのちの久安6年3月に,法成寺増仁によって寄進され,一時成勝寺末となった(成勝寺年中相折帳/平遺5098)が,鎌倉初期になると幕府の保護が加えられ,修造が企てられた(吾妻鏡文治2年5月29日・建久5年11月27日条)。建久3年5月南御堂で修せられた後白河法皇追福の百僧供には当寺から3口を請じ,また同年8月源実朝誕生にあたり平産のための誦経を命じられるなど,源頼朝によって国分寺の機能は復活したかにみえる。しかし,寛喜3年4月,大飢饉のため諸国国分寺に最勝王経転読の宣旨が出され,5月その旨関東分国に仰せたとする「吾妻鏡」の記事以後は徴すべきものがない。「新編相模」によれば,国分寺は戦国期に堂塔以下兵革にかかり壊滅したという。国分尼寺は,薬師仏を本尊とした信仰をあつめていたが,現在当寺薬師堂にかかる正応5年10月6日の国分尼寺の鐘(国重文)銘によると,海老名氏の一族で国分氏を称した源秀頼・秀久ほかを大檀那として鋳造されたもの(日本古鐘銘集成)で,尼寺は国分寺とは別に,当地域を中心とした武士の信仰を受けていた。下って天正18年4月付の豊臣秀吉の禁制は「こくほ村国分仁寺」にあてられており(相文/県史資3下‐9753),尼寺は近世初期まで存立していたと思われる。現在の国分寺は旧国分寺域の南辺にあたり,元和3年以前に再建されている。天正19年11月に薬師堂領として国分の内で2石の朱印地を与えられ,江戸期へ継続した(記略・寛文朱印留)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7066857