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宝城坊
【ほうじょうぼう】


伊勢原市日向にある寺。高野山真言宗。本尊は薬師如来。俗に日向薬師(ひなたやくし)といわれ,日向山霊山寺の別当坊であった。日向山霊山寺は「新編相模」所収の縁起によれば,行基が霊木を得て彫った薬師如来を安置するため元正天皇の勅願で霊亀2年に建立されたという。「行者本記」は,持統天皇の時代に役小角(えんのおづぬ)が八菅山に入山し,100体ずつの薬師・地蔵・不動明王を彫って虚空になげうったところ,薬師は当地に,地蔵は蓑毛に,不動は大山に落ち,日向薬師・蓑毛の延命地蔵・大山の不動尊になったと記す(渋江二郎:日向薬師)。平安期の天暦6年2月,村上天皇が口径2尺余の梵鐘を奉納(日本古鐘銘集成)。仁平3年には鳥羽上皇の院宣によりこの梵鐘を改鋳しており(同前),朝廷の帰依を受けている。この間相模守大江公資の妻相模が霊山寺の薬師堂に眼病平癒を祈願して参籠。「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」(相模集/群書15)の歌を残している。鎌倉期にも薬師信仰はさかんで建久3年8月源頼朝が妻政子の安産を祈願して相模国の寺社に神馬を奉納,読経を命じた25か寺中に霊山寺も列せられた。同5年8月には頼朝自ら大姫の病気平癒のため参詣。同年10月歯痛平癒を祈願し柏木上総介義兼に参詣させている。承元4年6月政子が参詣。建暦元年7月にも政子は源実朝夫人を伴って訪れた(以上吾妻鏡)。南北朝期の康暦2年後円融天皇から堂宇修造費として三河・遠江国の棟別銭をあてる綸旨を賜っているが(相文/県史資3上-4855),これも日向の薬師如来への信仰による。一方,平安末期から鎌倉初期頃に日向山に修験道場が開かれたと思われ熊野三山の修験であるとされる。室町期文明18年には京都聖護院の道興准后が参詣止宿し「釈尊のすみかと思う霊山に薬師仏もあひやとりせり」と詠じた(廻国雑記/群書18)。聖護院は天台系修験の当山派の中心寺院。戦国期小田原北条氏が60貫300文を霊山寺に寄進(役帳)。小田原攻め後の天正19年11月徳川家康から日向郷内に60石の朱印地を賜り,江戸期も同額の朱印地を安堵された(記略・寛文朱印留)。万治3年慶山別当は霊山寺を修造し中興といわれる(新編相模)。更に延享2年当国内での勧進を許され修復を加えている(同前)。寛政3年の「寺院本末帳」(本末帳集成)には,「御朱印〈堂領六十石 社領四石〉高野山無量寿院末 愛甲郡日向山霊山寺 宝城坊」とあり,15の僧坊名を連ねる。朱印地の社領4石とは日向薬師を本地仏とする熊野白髭合社にあてられたもので当坊持ち(新編相模)。諸坊のうち理円坊は本山派修験小田原玉滝坊の配下にあり,薬師堂と七所権現社の香火・灯明をつかさどっていた(同前)。常蓮坊の「峯中記略扣」(江戸末期)に当時の修験の片鱗がうかがえる。峯入り先達を勤める者は20両ほど要し,全行程は5日間であったという。明治維新後当坊を残し廃絶。当坊が日向薬師の法灯を維持し現在に至る。寺宝に平安期作の木造薬師如来両脇侍像,鎌倉期作の木造阿弥陀如来坐像・薬師如来坐像・日光菩薩立像・月光菩薩立像・四天王立像,鎌倉末期作の十二神将立像,室町初期の当寺旧本堂内厨子,室町期鋳造の銅鐘(以上国重文),大太鼓・木造獅子頭2頭(以上県有形民俗文化財),樹齢800年という二本杉(県天然記念物)がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7068923