山下町
【やましたちょう】
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(近代)明治32年~現在の町名。はじめ横浜市,昭和2年からは横浜市中区の町名。もとは外国人居留地であった横浜市日本大通り・富士山町・神戸町・花園町・加賀町・阿波町・薩摩町・本村通り・京町・越後町・大坂町・琵琶町・前橋町・蝦夷町・駿河町・小田原町・尾張町・武蔵横町・豊後町・函館町・角町・堀川町・武蔵町・二子町・上田町・本町通り・水町通り・九州町・長崎町・海岸通の横浜居留地30か町と幕末の港崎(みよざき)町(公園)の地域。大正12年埋立地を編入。昭和3年一部が日本大通・横浜公園となる。同5~53年に数回にわたり埋立地を編入。町名は,同じ外国人居留地であった山手に対応するもので,山の下の意。地名としては山手の方が古いが,外国人居留地として整備された時期は,山下の前身である横浜居留地(関内居留地)の方が早い(横浜の町名)。文久2年仏国のカトリック宣教師ジラールにより横浜天主堂が建設され聖心教会堂と名づけられた。また明治5年に日本最初のプロテスタント教会の日本基督公会が創立された。安政6年開港以来欧米人らの使用人として中国人の渡来が多くなり,在浜の華僑のうち居留地内外国商社に勤務する以外の者は,当町の一区画に集まり,南京町,現在中華街と称する独特な飲食店街を形成した。明治5年の同地の戸数130・人口963。大正元年西ノ橋~本牧(ほんもく)間に横浜電気鉄道の市内電車が開通。同12年の関東大震災の際,当町一帯の建物はほとんど倒壊し,1,000人余の死者を出した。震災の際の瓦礫で地先の海面が埋め立てられ,昭和5年山下公園が開園。同公園は第2次大戦後米軍に接収されたが,同29年から一部ずつ返還が始まり,返還後は市民のいこいの場となっている。同36年シアトル航路の氷川丸が山下公園に接岸し固定された。昭和3年ホテルニューグランドが開業,同20年マッカーサー元帥が同ホテルで終戦処理を行った。同ホテルの前身は,明治6年英国のマーシャル・マーティンによって建てられたグランドホテルで,居留地内において迎賓館のような役割をした。同37年山下埠頭臨港線起工。同38年山下埠頭完成。同47年テレビ神奈川が開局。同50年県立県民ホールが開館。戸数・人口は,明治34年343・2,032,大正6年401・3,668。世帯数・人口は,昭和4年1,062・4,875,同22年1,312・5,570,同55年2,048・5,429。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7069508 |